造語

ジャーゴンというか造語というか言葉遊びにはそれなりに執着している自覚があるのだが、ここ数年間というもの、2chネトゲはてなと場所は変わりつつも造語が生まれては消えていく(というか消費される)過程を見守るのが大部分になってしまっていて精神衛生上あまりよろしくないような気がするな。webはスピードが速すぎる。花は散るのが美しいとは言うけれどもやはり俺としては熟して実となり色々中略して大自然が形成されるような感じの視点で捉えたい。ここはひとつ視点の場所を工夫するべきか。
と書いてしまってから思ったが別に大自然とはいっても言語学とかそこらへんを殊更意識すると言うのではなしに、読者投稿欄とか深夜ラジオとかそこらへんが原体験なのであそこらへんの言語感覚を大事にしていきたいと思った。

興が乗ったのでもう少し書く。

webの造語の消費されっぷりはなんというのかな、育つ過程が美しくないというか、アメリカ式農業と言うか。そりゃあただっぴろいところに種水農薬をヘリからブン撒けば収穫高はあがるわ、みたいな。遺伝子操作は言い過ぎとしても。んでそれがどう消費されるかっつーと家畜の餌とかなのな。それは言い過ぎ。全部が全部じゃないよ!(フォロー遅い
逆に俺が美しいと思うのは日本的…じゃなくて野生か、野生。人の手は加わっていないが虫とか動物とかの影響によって自然と繁殖する、というような。あるゲームジャンルにおける一つの動詞の用法…例えば「刺す」「まくる」「回す」「投げる」「撃つ」といった動詞がそれぞれの場においてそれぞれの意味を持つ、といったような。
そこらへんから考えてみると、web上の造語(というか流行り言葉だな)ってのはそのほとんどが「セリフ」であるな。単体で使用できるし、レスポンスとしても成り立つ。それはまあ「面白いフレーズ」という形をとってはいるものの、味も素っ気も無いというか、生命力のようなものが欠落している。求めるものとしてはもっとこう、「生命活動*1の中からにじみ出てきたようなフレーズ」といったような。
とはいえ、「名言」「名セリフ」が必ずそうではない、ということでもなくて、結局はローカルなダベりの中での文脈が、実際に使用されるときに感じ取れるかという話になるのだろうか。結局感覚論かよ。使えない男だ。

*1:というのは例えなので、正確にはローカルな趣味におけるダベり

いじめと自殺についての話を読んでいて思うこと

どれが良くてどれが悪いという部分はその人なりの考えや経験があろうからあまり気にならないが、「コトが起きてからどうするか」ばっかりで「コトが起きるまでにどうするか」が抜けている語りやコメントを見かけるとやや萎える。まあそういう人というのは恐らく、悪気は無くて自殺について考えてみた結果が自然とそうなってしまうタイプなのだろうから仕方が無いのだろうけれども。当事者からしたらどう見えるのかしら。

メモ

http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20060716#p1
http://b.hatena.ne.jp/setofuumi/%2a%e9%9b%a3%e6%98%93/

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)

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「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出

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