10日間で話したこと/思ったこと
見出しを作って順次書き足したりいじっていく感じで書いていこうと思う。
詳細に関しては個人的に聞かれたら、くらいで。
基本スタンスについて
自分(setofuumi)が書くことについて、「過去の自分」というのが重要なチェックポイントになっている、というのは書いてきたし話してきたのだが、今回改めて再確認できたと思う。それは「過去の自分が読んだとしたら」ということでもあるし、また同時に「過去の自分がその状況を乗り越えるために」ということでもある。
エチケットペーパー的なもの
このままだといちいち数行書かないといけないのでショートカットのために書いておこう。
いくつかの文章や現象を引き合いに出す(ダシにする)、またはネガティブと取られる可能性のある言及の仕方をすると思うのだけれども、そのほとんどは
- 文章や行為を憎んではいない
- むしろ自分自身に該当する箇所が多い
- 基本的に「本人が楽しくハッピーならそれはそれでいい」というのは最強
- の上で、モニターの前でsetofuumiはそれに反応する
- setofuumi自身の屈託や倫理観や過去の自分との対話において。
- それは俺個人のもので誰のものでもないし、ましてや間違っても一般的な倫理や常識とかではない
という前提で書いていくことにする。
setofuumi的「けまらしい」の解説
「日常/非日常」「密/疎」「off/on」
注意書き
ここの項は実は「だからどうなんだ」という内容だったりする。
まあ趣味の分析、みたいな具合で読んでもらえれば幸い。
問題は「何かを誰かに向けて書く」時か、「自分の欲望は何か?」と問いかけた時にだけ発生する。
注意書き2
これらの分類よりも上位に「実際の生活圏の範囲での人間関係」というのがある。学校とか職場とか家族とか。それは当然として、の話。
また、それら「生活圏」での人間関係がある人、あるけど辛い(悩んでいる)人、場はあるけど関係がない人、場がなくて関係もない人、と場合わけして考えると色々と広がって面白いと思う。興味がある人はそうしてください。
A(A')BCDEのヒエラルキー
多分図にするとわかりやすい、のだが、そういうの苦手なので後でやる。図の作り方教えてくれる人いないかなー。
書いてみた。こんな感じ。
http://f.hatena.ne.jp/setofuumi/20071026160152
日常 | 非日常 | |
オフライン(密&疎) | A | A' |
オンライン(密) | B | C |
オンライン(疎) | D | E |
なんだこれでいいじゃねぇか。何をやっているのか俺は。
ポイントだけ書いておくと、「A=日常的に会って会話をする」とすると、それは一部の人間にしか到達し得ない地点であって、かつ非・一部の人間がそこに近づいても「A'」(A≠A')というものになってしまう、といったような話。ただ、それはただの事実なので、良い悪いではない(噛み付く人が多いのでエチケットペーパー敷いとく)。が、「書くこと」においてはそれは良い悪いになり得る。それでもそれは「setofuumiの評価」としてしかアウトプットできない類のものだけれども。
あとonoffの壁みたいなものについて。「リア充について」といってもいい。
引用してる人がいるので追記する形で。
各項目を補足すると
A | 日常的に会って話すとか飲み食いするとか。交友、交際関係と呼ばれるもの。密もあれば疎もあるが、蓄積することによって密へと向かっていくことが大抵(疎が続く場合は交友関係自体が消滅するというのもあり) |
A' | イベント的、旅行的に会って話すこと。密度がどうなるかはわからない。また、その一回きりで蓄積はない。なんの接点もない場合もあるし、ネットやメディアを通じて、あるいは血縁関係など(他人によるA)によって接点がある場合がある(今回は後者の方を意識している) |
B | 日常的に密度のあるネットコミュニケーション。いわゆる「ネット上の知人」との会話。 これもAと同じく、蓄積によって密に向かう、という側面がある |
C | イベント的にネットによってコミュニケーションする。スパンの長い文通なんかはこれに当たるか。ネットだとイベント的にチャットやSkypeが用いられるので想像しやすいかも。というかブログのTBなんかは大抵ここに該当すると思われる。 |
D | mixiの晩飯報告的なもの |
E | 同一性のない相手同士のやり取り、みたいなイメージ。「匿名間のやり取り」はここに含まれる。もちろんメリットもある。これがEではないどこかに繋がる可能性は、あったりなかったり。 |
これを既存のものに当てはめてみるとこんな感じだろうか
オンラインのどこから(BCDE)でもAにもA'にも接続可能。
A,A'の延長として、補完のためのB,C、というのがある(もちろんネットを前提としたB,cが無いわけではない。両方あるということ。)。
- 地方ブロガー
Aには到達不可能。A'まで。日常としてはBが最高到達地点なので、D⇔Bみたいなのが重要になる。また、この時のBは、東京ブロガーの「A→B」「A→C」といった「リアル補完ツールとしてのネット」という使われ方とは若干違ってくる。
基本的にA,A'だけが存在し、補完的にB,Cがある(毎日のメールや仕事上のメール)
EからA'へとショートカットする行為。稀にA’からAに接続可能。
ここにも地方/東京の格差的なものは存在する(地方者はAは基本的にありえない/極めて低確率)。
で、ここらへんから考えていくと、「けまらしい」というのは
「自分には到達し得ない部分(A,A'-E)、あるいは、その部分を前提としたオンライン上の振る舞い(A,A'を前提としたB-E)が可視化されたときに、それらに対して向けられる怨嗟の声である」
とか言うとかっこいいのではないだろうか。
そして、「けまらしい」と言ってしまう、言ってしまうがちな人に俺から何かアドバイスできるとすれば
それは本当に到達不可能なのか
自分は本当にそれを必要としているのか
必要とするものを得る手段が他にないか
可視化されるものを、不可視化できないか
あとこれは「高望みするな(甘えるな)」論法になるので好きではないが、mixiで晩飯報告する人間関係もアリなわけで、A-Eどこにでも幸福を見出すのは可能だ、ということ。まあ自分の欲望がどこにあるかを見極めて最適な行動を取りましょう、になるんだけど。一般論くせー。
あたりになるだろうか。「言われる側」に関してはもう既に書いたので割愛するが、やはり「言われる側が"言われる"というコストを支払うべき。なぜなら言われる時点でハッピー*1なのだから」と考えている。自分も含めて。
*1:…というのは個人の意識でしかない、というのは重々承知の上でこう書く
「けまらしい」について。書くこと、書かないこと。一般化と「私」の書かれ方。
基本的に、個人がある特定の手段でハッピーになるのなら(それが犯罪でない限りは)、それは良いことだと思っている。その上で。
↓の「飲みに行きませんか」と「剣と魔法」の2つは要するに「けまらしい」なので、以前書いた
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20070925#p1
あたりに繋がってくる。
ちなみにここらへんでウケて記憶に残っているのが、「参加できないなあ」という呟きに対して「私はほとんど参加してません」と返されていた場面があって、その「ほとんど」に含まれている無邪気さというか残酷さが度し難すぎてひどく面白かった覚えがある。と、これは余談。
で、これはこれだけでは良いも悪いもない。ただ、ある手段においてハッピーになれる人となれない人がいる、というだけのことだし、個人が特定の手段においてハッピーになれるのならそれはそれで良いことだ。ハッピーになれない人は、まあ、しょうがない。
ただし、その際ハッピーになれる側が常日頃「不幸」「悩み」といったことについて語っている人の場合は若干違ってくる。そういった人は大抵、「アンハッピーな人」という大きいくくりで(恐らくその中に自分を入れて)何かしらを語っている。
そのような人の目の前に「それでは私はあなたのようにハッピーにはなれない」(ので、けまらしい)と言う人が現れた時、
- 大きいくくりで「アンハッピー」を語ってきた以上、その目の前の人に向き合うか*1
- 「私だってこんなにアンハッピーだ」「そんなに羨むほどハッピーじゃないよ」と返すか
- 「けまらしがっている」「水を差すな」「ネガティブコメントだ」「炎上させられた」と返すか
という選択肢があって、俺としては正直下2つはあり得ないんじゃないか、と感じている。もっというと、下2つの返答を選択してしまうということは、今まで語ってきたことは「私」でしかなかったものを「アンハッピーな人」という大きいくくりで偽りながら語っていたことになる。俺としてはそこに欺瞞や傲慢を感じるので、モニターの前で積極的に見下していきたい。
もう少し書く。
今まで書いてきたことは、ともすればidでいうとREVさん的というか、「飢えた子供が」とか「間接的殺人が」とか、さらに「それは"飢えた子供"論法だ!」「それは"間接的殺人"論法だ!」とかに回収されてしまいがちなんだけれども、俺が考えているのはそういう論理的、倫理的なことではなく*2、「大きく"救済"を語るわたし」「一般化されてみたアンハッピーなあなた」という1対1関係が現れた時にどう振舞うのか、振舞えるのか、ということであったりする。その時に"わたし"は手を差し伸べるのか、「そうですか」と呟くのか、「けまらしがっている」と言い放つのか、という。
別項にしようと思ったがこのままさらに追記してしまうと、大きく語られた「救済のため」あるいは「ハッピーになるため」の文章というのはいくつも書かれているし、よく読まれている(注目されている)と思う。けれどもそれは、俺から見ると「ハッピーな人にウケている」ように見える。idでいうとmizukikさんのよく言う「こんな私でも幸運なことにハッピーになれました…って言われてもなあ」といったような。それは既に通過した(あるいは可能性のある)人間からは「いいですね」と言ってもらえるけれども、そこまで到達していない、あるいは到達不可能(困難)な人には届かない、といったような。
それは書き方によっては「この壷を買って幸せになれました」と大差がないようにも思えるし、どんな文章にしろある程度の前提というものはある。bが1000に届きそうな
http://b.hatena.ne.jp/entry/6196858
この話題も、「子供が生める」「周囲に人がいる」という前提で書かれているし、その前提をクリアできない人間にとってはそれこそ「剣と魔法」の世界の話としてしか読めない、という事実は、事実としてある。
「飲みに行きませんか」問題(あるいはcome on join us問題)
↑のことをわかりやすくキャッチーにしたもの。
単純に、「会って話す(飲み食いする)こと」に軸足を置いている人が遠方の人に「飲みに行きませんか?」と言えるのか、という話。もちろん反語。反語というか、そうはなっていないよね、という。bのzaikabouさんのいうところには強く同意します(それがその人にとっての欲望ならば)。
「交通費を来てもらう側が負担する」というケースもあることは知っているが、それは特定個人の一回ないし数回に限った話であって、それがデフォルトであることはあり得ないと思っているので考慮外。
少し追記すると、「飲みに行きませんか?」は断片部の新人のための儀式というネタ的側面を持っている(というかそれが本体)なので、「ネタをベタに取られちゃった」という返しがある。俺自身も「問題」とはいうものの解決すべき問題だとは思っていない。
ただ、come on join usというのはフラットな場(要するにネット)で使われるから機能するのであって、オフラインの要素も含んだ場所でそれが言えるのか、と問われればNoだろう、といったような感じ。
剣と魔法
↑↑のことをわかりやすくキャッチーにしたもの。
ある前提(剣と魔法が日常)で書かれている文章は、そうではない人にとってかなり難易度が高い(素直に読めない)文章である、ということ。
これは裏返すと、剣と魔法という存在について入念に注意深く書けば、非日常である人も読めてしまう、ということでもある。
でもまあ、大抵の場合は「素直に読めないのは心が曲がっているから」的な反応だったり「努力が足りない」だったり「邪魔すんな」だったりはするよね、という。
あと、何をもって「剣と魔法」とするか、だけれども、身体的だったり避けられない、戻らなかったりする部分は当然として、コストが莫大な場合も含まれると思う。例えば、今現在田舎で家業手伝いをしている俺が「彼女が欲しい」と願ったとして、「東京のクラブに行ってナンパすればできるよ」というのは剣と魔法ですね、といったような。例え話ですよ!
可能、不可能と日常、非日常について
↑3つくらいでここをおさえとかないといけないな、と感じたので追記する。
A-Eの図で説明できるのだがまだ書いていないのでここで。
世の中のものは大抵、可能/不可能では分かれていない。日常/非日常か、低コスト/高コストか、だ。で、非日常で高コストを支払うことによって得られる幸福もあるし、日常で低コストがゆえに得られる幸福もあるだろう。
そしてそれら「幸福」を(一般論として、大きく)語る時、「高コスト」な場合は何かしらの抵抗、ツッコミが入るものだろう。「パンがないならケーキを」がツッコミ的な慣用句になっているように。そしてそれに比べると、「日常/非日常」という分岐点は考慮されていないことが多いように思う。
自分は今回色々な人に会ったけれども、それは結局のところ「非日常」である、と言える。いや楽しかったけれども、それは非日常の楽しさであり、日常の楽しさはまた別の問題になる*1。そしてまた、ネットを通じてメール、チャットやSkype、あるいはブログのTBなどでコミュニケーションを図るのは、時に日常であるし、時に非日常である。Mixiで晩飯報告をするのは日常だし、出会いを求めるのは非日常と言っていいだろう。
これらのうちどれが良く、どれが悪いということは言えない。ただ、それでハッピーになれればよい、というだけのことだ。ただ、そこには「onoffの壁」「コストの壁」そして「日常/非日常の壁」といったものが存在し、俺としては、壁がなくなれ、とは言わないまでも、壁が前提になっているものよりも、壁を意識しなくとも済むようなものが素晴らしいものだ、という意識でいたい、という具合。
もう少しあるな。良い悪いはない、と書いたが、そこで重要になってくるのが「自分が一体何を望んでいるか、欲望しているか」というところになるので、そこで自分の欲望をやりこんで何を求めているかをしっかり把握した方がいいよね、という話に繋がる。血液型の話題や晩飯報告に馴染めなくても問題はないし、アカデミックな話題やメタな話題に馴染めなくても何の問題もない。
*1:ここは俺が幸福だ/不幸だということをいっているのではない、念のため
WSC(ワイドショーコメンテーター)問題
ワナビー・マジョリティ及びワナビー・ワイドショーコメンテーター問題。
結論的な部分は出ずじまいだったが、どういった問題であるかがかなりはっきりわかったので記録しておく。ネットの言論を表現する際に用いられる「居酒屋」「床屋」といった部分や、「アルファブロガーコメント欄」的な部分も含みつつ。
- とりあえず、ゴシップ、ワイドショーの類は娯楽としてアリ
- 「ワイドショーコメンテーター」というのは本来「代弁者」として生まれてきたものなので、単純に「代弁されてきた人」が可視化されてきているだけではないか?
- ここに関しては頷けるんだけれども、それでもやはり「代弁されてきた」ではなく「そう育ってしまった」層もいるよなー、と思う。
- ここらへんはメディアや教育の力ってすげー、という話にしかオチない気もするんだけれども、それでも何か結論っぽいものを置くとするなら、「頭の悪いことはちゃんと頭の悪いこととして扱いましょう」とかになるかなあ、俺としては。
- そこでいうと、明確な指針に則った「優越感ゲーム」を、俺は肯定したい。「見下し」「煽り」が文化を発達させる側面があるように。
- ここらへんはメディアや教育の力ってすげー、という話にしかオチない気もするんだけれども、それでも何か結論っぽいものを置くとするなら、「頭の悪いことはちゃんと頭の悪いこととして扱いましょう」とかになるかなあ、俺としては。
- ここに関しては頷けるんだけれども、それでもやはり「代弁されてきた」ではなく「そう育ってしまった」層もいるよなー、と思う。
- 「ワナビー・マジョリティ」が進化すると「ワナビー・コメンテーター」に
- 前者は「頷き」による一体感を求めて「書き込み」ボタンをクリックする。後者は「頷かれる」ことによる快感を求めて、何かを「代弁」しようとする。
- で、「娯楽としてアリ」に話を戻すと、居酒屋や床屋的なものであるならそれはそれで、ということに(アルファブロガーのコメント欄)。
ここ重要なのだが、「床屋はヒマ」というところから、「床屋にいてもわからないことをヒマな時間を使ってしっかり調べろ」となると真っ当なジャーナリズムの方向に行くと思うんだけど、まあ、床屋は床屋から動こうとしないよね、みたいな部分はあるなあ。
ま、床屋=PCの前、くらいの意味で。
-
- 分をわきまえた「居酒屋」「床屋」的なものは、それを「外部に出してはならない」という意識も込みでなされるものではないか。
- でもまあ、「上司の悪口」だったら暗黙で通じるけど、相手が国や政治、マスコミとなっちゃうとそれも通じにくいか。
- 分をわきまえた「居酒屋」「床屋」的なものは、それを「外部に出してはならない」という意識も込みでなされるものではないか。
- 「○○には××すればいい」という記号
- まあ人間は楽しようとする生き物なので、そういう理解の仕方が楽。
- 誤用の再生産
- →「そういう風に教育/学習されちゃった人」はどうしても、いる。
- これはもう単純に「そういう風に教育/学習されちゃった人はかっこわるいよねー」と言ってくしかないんではないか。もちろんオフラインで身近な人にはちゃんと話してあげるとして。
- →「そういう風に教育/学習されちゃった人」はどうしても、いる。
- 誤用の再生産
- まあ人間は楽しようとする生き物なので、そういう理解の仕方が楽。
あとここらへんのことを踏まえたとして、本当に「ネットによって何かの仕組み変えよう」とするならば("マスコミ"みたいなものを越えていこうとするならば)、必要なことはまだまだ色々あるよね、という話にオトすときれいかな、などと思った。まあ俺はゲームで遊んだり友達が欲しい方が欲求として強いのでそういうことには疎いのだけれども。
会話における日常/非日常
A-E分類の土台になった見方。
同じ初対面でも、事前どんなやり取りがあったのかで違いが出てくる。
これは単純に
- ブログの存在を互いに認識している(読んでいる)
- ブログ上でやり取りがあった
- チャットなどでやり取りがあった
- 定期的にやり取りがある
といった感じのグラデーションによって話し方が変わるなあ、ということ。
どれがどうなる、といった類の話ではないが(話すトピック、趣味や共通の話題によるので)、一定時間内に何かを話す、というときは多少意識するといいのかもしれない。
と、文章にしてしまうと「そんなの誰でもやってるだろ」という話になってしまった。
一定時間内に密度のあるコミュニケーションをしようとした時のポイント
話すにあたり、何を期待されているか、どう見られているか、トピックはあるか、などのポイントが重要なのだな、と実感した。
こちらが話したかった、向こうが聞いてみたかった、事前にやり取りがあったりなかったり、とまちまちだったのだが、ポイントの認識が曖昧だと上手く話せない&不安になった。ちょっと相手の人困らせたりしたかもしれない。ここは多分ポイントを確認することから話すとうまくいくような気がする。実際一箇所ではそれがうまくはまって延々なんだかんだと話していた。
そういうのがなくともダベることができる共通のトピックが何かあれば、ダベっていく間に徐々に認識をすり合わせていくこともできるのだろうけれども。
あとここらへんについては、あけすけに言ってしまえば「細かいことはどうでもよく、とにかく会う/飲む」ことが重要になる人(ケース)もあるだろうから、そこらへんに関してはどうしようもない、考えなくともよい、とも言える。
でもその「とにかく会う」といった感じのものに含まれているものは、日常/非日常でいくと日常に属する部分が大きいと思われるので、求められても困る、というか求められても満足のいく対応/支払いは無理、といった感じになるか。
そしてここらへんはonoff関係なく、ネットでチャット/Skypeしましょう、となったときにも言えるので改題した。