好き嫌い判定の項目が多い人というのは損だな、とか思った話。あとネガポジの話。

つらつら箇条書きに

  • 自分は割と好き嫌いが多い
    • 食べ物とか造形ではなくて、言葉とかの方面で*1
      • 特に珍しいと言うこともなく、結構似たような人は見かける
  • でも言葉は人間誰しもが「生産者」なので、「甘いみかんよりも酸っぱいほうが好き」とかいうと甘いみかん生産者に怒られる、とかが起こりがち
    • でもみかん*2よりは、言葉は変化させることが簡単だし、再生産も簡単、とは言える。
  • モノの好き嫌いは人の好き嫌いとはイコールではない
    • Aさんが個人的に嫌いなモノをBさんが数え役満級に持ってたら、まあ「AさんはBさんが嫌い」とはいえるかもしれないが、それら嫌いな要素が「変化可能」ならば、「人が嫌い」にはならないんではないかな、とか思う。
      • 逆に言うと、変化できないもの、難しいもの、肉体や性別や経歴や出身など、に対して「嫌い」というのは、「人が嫌い」と言っているに等しい、とかいえるか。なんかレイシズムらへんに繋がりそうなのでこれ以上踏み込まないけど。
  • 話を戻して、「モノが好き、嫌い」という自分基準を多く持っているというのは、ある意味で「人を嫌う」のを避けるためにそうしていることもありそう
    • 恋人が音を立てて物を食べる人だったら、「恋人は嫌いじゃないけど音を立てて食べるのは嫌い」とかになるようなやつの応用
  • でもまあ「恋人」という前提がないと、「音を立てて食べることが嫌い」というのは「その人が嫌い」ということになってしまいがち
    • 音立てないように食べるくらいしろよ、と思うかもしれないが、ここは例えなので、「〜〜くらい従ってやれよ」になるか、「そんなことで嫌うなんてその人が嫌いなのだな」になるかはまちまち。
  • ここらへんまでくると、「人に何か言う」という行為の意味あたりの問題が入ってきて、「本当に嫌いなことは触れずにスルーする」みたいなのも出てきてごちゃごちゃ。そこはまだすっきりした文章にならなそうなので割愛。
  • おおざっぱにその場その場で好き嫌いを決めたり、変化不可能なところで決定したり、一人一人認識するごとに好き嫌いに振り分けていったり、とかよりは、変化可能なモノで好き嫌いを決定してったほうが何かと楽だし、「そこが変われば嫌いではなくなる」という可能性を残す分いいんじゃねぇかなあ、とか思う
    • のだが、自分を含めた人間全てに対して平等に適用されるため、嫌いの総量、というか、ベクトルの量は増えてしまう、のだろうか。
      • 「人間に対して優しい」あるいは「ポジティブ」あるいは「誠実」なのがどっちなのかは、まあわからんわな。
  • でもまあこうして考えてみたところ、可能性残している分だけ「モノ」を嫌った方がいいんじゃねぇかなあ、と思うんだけど、その割には「いっぱい嫌いって言ってる!ネガティブだ!」とか責められたりすることが多いように見える(俺の観測範囲では)。
  • 瀬戸風味さんは自分をポジティブで誠実だと思っています
  • 瀬戸風味さんは自分をネガティブで不誠実だと思っています
  • まあ、「ぼくがポジティブ(ネガティブ)を一番うまく使えるんだ!」ということで。

*1:俺言語で言うと「書くこと」方面

*2:もっと言うと、変えることが難しいもの、顔体の造形とか

感情論は理屈

とかつて誰かが書いていたが、それはそうと「理屈をいっている人の感情」というのはあまり汲み取られないようなので感情も万能ではないなあ、とか思った。「こいつには感情がない」とか結構簡単に判断されるんだよなー。
そこここで指差される「理屈」というのが、単純に「感情」をちょっと多めに記述しただけのものだったりすると尚更。
あれか、3行以内だったら感情でそれ以上だったら理屈、とか基準決めちゃうのはどうか。だめか。