読むこと(ケータイ小説周辺

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071128/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071128/p1
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20071128/p1
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ここらへんから。ケータイ小説に関する部分は概ね頷けたのだが、カンガルーのエピソードはtragedyさんがいうように傲慢だろうな、と感じた。あとそれへのブックマークコメントの「その傲慢なことを意図的にガチでやるのが批評なんじゃね(意訳)」というのにも頷くところがあった。

で、自分のいいたいことを一言でいってしまうと、「VOWも面白いんじゃね?」だったりする。
先入観をなくして考えてみると、VOWの投稿者も編集者も、嘲笑というよりかは「純粋に、素直に、ベタに」面白い、と思ったのかもしれないし、その笑いの対象、視線は「新聞」という媒体に向けられていたかもしれない。そしてそれが本となり、読者がどう読むかも色々あるだろう…とどんどん広げられる。
(詩歌の待ち伏せのエピソードとVOWネタを)二つ並べて、どっちかっつーとこっちが好ましい、というのならわかるんだけど(実際kaienさんはそう書いている)、なんだか「嘲笑だから劣っている」「純粋な感性ではない」といった評価が出てきそうで危なっかしいし、あとそういった優劣評価は「自分が必要とするものを、自分を豊かにするために読む」を実践するには邪魔になるのでは?といった感じがする。もし、「自分が必要なもの」「自分を豊かにしてくれるもの」といったものがはっきりしっかり把握されていて、ある一定の基準*1により作品を選り分けられる、というのならオッケーなんだろうけれども、俺はそこまでの能力はないので受けは広く取っておきたい。

ここらへんからちょっと話が飛ぶんだけど、もしVOW的なものが嫌なら、これはもう単純に「嫌だ」といっときゃいいと思う。「嘲笑だ」みたいに対象の意図をエスパーしなくていいし、その「VOW的なもの」だけ嫌っておけば、「未来に出会う何か」の可能性を潰さなくてすむと思う。逆にいうと、そこでなんやか余計なくくりで嫌ってしまうと後々不自由になりそう。
と、ここで過去に何か書いたのを思い出したのでおいておく。中二病の話。
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20070109#p3
ここの文脈からいうと、もし嫌いなものがあったら、鼻で笑って見下しておけばいいのでは、といったところ。上述したように「嘲笑だから」を理由にしてる人はこれができなくて不便だなあと思う。んで、その「鼻で笑って見下す」のは、地雷的ではなく競争的なものでなくてはならないよね、といったところ。

*1:嘲笑である、ない、素直である、ない、とか