けまらしい

なんかものすごく読みにくい文章になった。反省している。書き直すかも。


というのは便利なんだけど、今現在の用法だと若干ずれるところがあるというか、こぼれおちるところがあるんだよな、とか考えている。
まあそこは*1言語化するのは難しいところで、かつ人間関係や自意識もからむ問題なので大抵は「ああ、めんどいし変なものが出たら恥ずかしいからけまらしいでいいわ、通りがいいし誤解もされんだろう」というところで落ち着いてしまう。
それでも多少書き留めておくと、それは多分何かを「共有」することが出来なかった、という感覚なのだろうと思う。それが「うらやましい」ないしは「あらまあ随分とハッピーですこと」というニュアンスを多分に含むのなら、それは「けまらしい」と呼ばれるべき感覚なんだろうと思う。
ただ俺がイメージしているのは、そういう表層的なもんではなくて、なんだろう、屈託?ごめん適当に言った。話が大きくなるが、「自分がこうありたい」という欲の中に「自分を含めた世界*2がこうありたい、あって欲しい」という欲がどれだけ含まれているか、ということで、その比率というか、後者への拘り具合のズレが発生した時に生まれる感覚というのが「けまらしい」と呼ばれつつも、そこから抜け落ちてしまっているような感じは、する。
そのズレというか、「共有して欲しい感覚、意識、認識」のようなものが、ある一定の振る舞い(例えばオープンな場でクローズド*3な話題をあっけらかんと出すとか。あとまあそれがいわゆる"盛り上がり"によって可視化される、といった現象)によって裏切られてしまう、というのが「けまらしい」と呼ばれるもの、だろうか。(*ここは別に「世界全部に対してオープン」という意味では言っていない。限定された範囲、学校の教室のような互いが互いを見ることが出来る範囲で、オープン/クローズが使い分けられる、といったようなことをイメージしている。)



たぶん、そこで「自分も参加したい(自分が楽しかったらオッケー)」か「節操がない、はしたない(自分は嫌い)」かの違い、というのはある気がする。俺はどっちかというと後者寄りになっている気がする。それは自分が楽しい体験をしている、という自覚と共に。ここらへんは詳細に書きたくないので終わる*4
適当に表現すると、「けまらしい」という感覚に対して、どれだけ対応しようという意識があるかどうか、というところだろうか。ゆるいひとはなんでもかんでもオープンに出すだろうし、厳しい人はなんでも「けまらしい」と言うだろう。ただ、その際に言うか言わないかは、その感覚の強さによって決まり、そしてそれが「自分もああなりたい」と「あなたが節操が無くて残念です」の、どっち寄りの感覚なのかは場合による。なので、俺としては後者はなるべく汲み上げたい(もっというと未然に防ぎたい)とは思う。
あと、ここらへんはネットによって今まで見えなかったことが見えるようになってしまった*5ために起こっていることで、恐らくそこら辺のバランス感覚が発達している人間は世界中でもそんなにいないと思うのだが(というか、正解がないというか、未知のゾーンに突入してる、的な理解)、ただまあ自分としては、自然にonoffの区別付けずに放っておいたらエロ業者と出会い系しかネットに残らなくなるような気がしているので、onoffをどこかで切り分けている感覚の方が良いものだと思ってしまいがちなんだろう、とは思う。

*1:"けまらしい"自体が「今まで表現できなかったことを無理矢理造語化した」ということからもわかるように

*2:カタカナでも可

*3:閉じられた、に加えて、制限がある、といった意味も含めて

*4:ある意味、ここで書かないのが俺の「けまらしい」を生む原動力というか原理のような気もする

*5:毎回例えで出すが、今まで見えなかった大学サークル部室内の差別発言や犯罪告白が外側に出て大変なことになっているように