例え話とネタマジ

ちょっとこれはあまりにも残念だったのでいくらか書く。
http://b.hatena.ne.jp/entry/komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1128/278761.htm
この事例は自分にとって『ネタマジ判定』あるいは『うまい例え』に関して、「期待する読者」がいて、「応える書き手」がいて、「それを評価する読者」がいる、という構図に見える。
これははたして、需要と供給がマッチしていていいじゃないですか、といえるだろうか。


ネタマジを見抜けたから○○だ」「見抜けなかったから○○だ」「ネタマジ関係なく振舞っているので○○だ」あるいは「例えなのでうまい」「すごい」といっている人たちは、何か文章を読んだときにまず「これはネタかマジかについて態度表明をしておくことが重要」という未来や、何か問題があったときに「それがどれくらい愉快な例え話にできるかが重要」という未来になった時にどう感じるのだろうか?

自分がこういう事例を目の当たりにした時に決まって抱く危機感は、そういうことだったりする。
これはもちろん過去の自分にも向いた意識なのだけれども、文章を読んだとき「これはネタかマジか」を考える前に、あるいは、何かについて語る必要ができたとき「どんな例え話にしようか」と考える前に、もっと他の何かがあるべきなんじゃないか、という気がしている。

ちなみに文学フリマ用に書いた8Pのひとつはここでいう「例え話」に焦点を当てた内容になっています
http://bwn.g.hatena.ne.jp/keyword/8P

以上宣伝でした。