ゲームのメタファーとしてのループについて(ひぐらしの話の続き)

先日「いただきストリートは電源を入れた瞬間にサイコロの出目パターンがすべて決まっていて、桃太郎電鉄だとそれが決まっておらず(理論的には)目押しできる」という話をした。
結論は、相手は「だから桃鉄の方が納得できる」で、自分は「だからいたストの方が納得できる」だった。

確かに「思い通りの出目を出せなかった自分が悪い」みたいな落としどころができるので目押しできるから納得できるってのはわからんでもない。なんだけれども、自分の場合はあらかじめ出目が全て決まっているからこそ、いたストというゲーム中の選択肢の結果に説得力が出るし、勝因敗因がはっきりわかって好ましいと感じる。それから、目押しの成否というのは身体的なものになってしまうので、そこに原因をおっかぶせるのはあんまり好きではない、というのもある。とまあ、これは「ゲームの種類による」という前置きが必要な話ではあるけど。

これをこの前書いたひぐらしの話にもってきてみると「奇跡を信じてサイコロを振る」みたいなメタファーは、「目押し側」の立場を取っているように思える。ひぐらしepi7においての「最善手」を巡る話の一部から「パターン側」かな、と思いかけるけれども、「具体的なアクションを起こす」あるいは「信じて行動する*1」というのは「目押し側」にこそ妥当な理屈だろう、というか、ひぐらしという物語中に出てくる「ゲーム」というのは、おおむね「目押し側」の論理で語られているように思える。*2

自分は「パターン側」の方が好みではあるけれど、それは二つのボートゲームを比べた場合であって、身体的なものを要求されて、その結果勝敗が決するものの面白さや奥深さも知っているし、好んで味わうこともある。それは"勝負"や"スポーツ"といったものの総称としての「ゲーム」と言えるだろう。ひぐらしの、ゲームのメタファーとしての物語*3は、こういった立場の上で書かれているように思う。

で、この前書いたように、自分は「パターン側」前回の表現だと「ゲーム(ルールというブラックボックス)と自分とのコミュニケーション」としての物語を期待していて、それを裏切られたと感じた、と。
これだけだと「勝手に期待して幻滅してんじゃねーよ」となるのでちょっと書き加えておくと、「ループ」というものは「目押し側」よりも「パターン側」の方が関係が深いと思っているからこそ、「ループもの」として書いて欲しかった、とは言える。「目押し側」はループというよりも「リトライとクリア(達成)」がテーマとなる。「パターン側」こそが「ランダム性とループ」というテーマを持っている、と自分は考えている。


まあ「ループもの」というくくりの物語では「ループからの脱出」というのがメインテーマに据えられることが多く、ひぐらしもまたそういうことになるんだろうとは思うし、その結末へ向けて収束させるのに「リトライとクリア」は不可避なんだけれども、俺が読んだループものの中では『All you need is kill』と『Steins;Gate*4は「パターン側」の機微を描くことに成功していると思っている。次作のうみねこは、まあ、いまのところ「勝負」の物語ですね、って読みをしている。これからどうなるかはわからんけど。

と、考えていることをざっと書いてみた。ようやくまとまったと感じている。
最後にちょっと穴を塞いでおくと、ここでいう「目押し側」「パターン側」はきれいに分かれるものでもない。どんなゲームでも身体的な要素を問われないものはほとんどないし、双方の楽しみを同時に味わっている瞬間がほとんどだろう。ただそこは、俺がゲームをやっていて最も好きな瞬間が、身体的な要求ではなく、ルールやプログラムとのコミュニケーションの瞬間で、「ゲーム」というものをあえて文章で描き出すならそこを描いて欲しい、という願望による。身体的な要求の達成であるところの「勝負」や「スポーツ」を描いたものなら数多くあるので、そっち側じゃない物語があったらうれしい、という話。

*1:結果としてモチベーションやテンションが上がる

*2:部活や麻雀に関する話などが顕著。

*3:これは逆にしても言えるのがひぐらしの面白いところだが、ここでは割愛する

*4:ただしこっちは"美少女系ノベルゲームのテンプレを踏まえた上では"と保留が付く