ゲームの話をする。

ゲームはプレイヤーとの一対一関係のときにもっともゲームらしく振舞う、という言葉があって、俺はそれに呪われているのでそれに準じて書く。
また、基本的には惑星開発委員会のplanetsという本と、ユリイカにのっていたさやわかという人の書いた文章に触発されて書いている。
とりあえず考えたことを書いたので荒いまま残しておく。

外部でドライブされるモチベーションと言うのは確実にある。それはライバルであり全国ランクであり実績である。が、それがもしゲーム性のまったくないものだったら続くだろうか。自分がプレイしたから、という実感があってこそそのドライブは機能する。それがテクニックなのかリトライの根気なのか突っ込んだ時間なのかはともかくとして。そしてその「瞬間」というのは、確実に、ゲームとの一対一関係として体験される。

そこで、ドライブされやすいシステム、相性のいいシステムとして、パチスロ演出であるとか、勝ち負けが一瞬で出るソーシャルゲームであるとか、結果がどんどん積みあがっていって可視化される要素であるとかは存在する。それを効率よくつくりましょう、というのなら話はわかる。んだけど、それは作る際の話だ。

ゲームをやって何かしらのものを感じる、ということは、それはゲームとの一対一関係で作られるものだ。前述の要素を「うまくのせてくれたな」と振り返ることはあるし、ある意味必須の項目ではあるが、それと「体験」の感覚とはまた別のものである。まあ会話のあるゲームで「いい人と出会えた」みたいなものまでいくとまた別になってしまうが。

number29さんの怪盗ゲーの話http://d.hatena.ne.jp/number29/20100914#p1を読めばわかるし、モンハンなんかもそうなのだが、繋がりがコミュニケーションが、と言われるゲームでも、一人で淡々とプレイする部分は多い。特にモンハンはpspなのかpc版かでだいぶ話が違ってくると思うのだが、そこらへんきっちり書いているのはあんまり見たことがなかったりする。場所やデバイスの話にもなってしまう。
書いた後に茶飲み話で出てきたので追記すると、接待ゴルフ程度にしか遊ばない層と、それを契機にして睡眠時間を削ってしまうようになって層の間に流れる川はどう説明するの、という話がでてきた。

なので、ゲームでコミュニケーションするのがコンテンツ、といってしまうのはちょっと遠く感じる。というか、ゲームに組み込めば便利だけど別に組み込まなくてもコミュニケーションは勝手におこる。もしビジネス的マーケ的にいくなら、そのコミュ手段も組み込んで金を回収する流れの方の話になりそう。ハンゲームのコミュニティとか。


CGMがどうこう、というのにおれは結構懐疑的で、あれは消費者からしたら「短いスパンで変化、刺激が得られる」というだけのものに見えて仕方がない。
短いスパンというところなら、とにかく刺激があればいいので、いかに効率よく刺激をあたえるか、というところでパチスロ的な部分をがんがん発達させていけばよいと思う。技術的に介入する要素を削るのは一つの方向としてあるわけだし。
東方らへんは主に絵と音で界隈が回っているように見えるので、あれはすごく妥当だとおもう。っていうかどう"ゲームプレイ"されているかちょっとわかんないんだけど、社会学者の人がフィールドワークしてたりしないのかな?


ゲームというのにはリトライというのがつきもので、淡々と作業するのもリトライとはいえる。ここで延々リトライして自分の腕を上げて、というのは確かに古い。stgで5面後半で毎回死ぬならそこまでの道のりは基本的には毎回同じことを繰り返すことになるし、新しい要素は自己ベスト更新した一瞬だけ、ということになってしまう、それでは厳しい(自分の成長を独自に物語として読み取ればいけるのだが、結構なリテラシーが必要になると思う)
そこで、リトライが苦痛にならないものとして、毎回違う結果が出たり、結果が出るまでのスピードが早いようにしたり、一回一回が確実に積み重なるようにするのは正しい。そして、自分の上達という物語を前提として要求するよりは、他人と競ったり新しいなにかを手に入れられる方がモチベーションとしてはカタい。これは当然の話。俺もXboxliveでだいぶモチベーションになった経験がある。ところでゲームの話の中でXboxliveの話はあんまり見ない(いやまあ数が少ないのは知ってるけどね
ここをつっこむと「部屋に座って何をするか」と言う話になってそれはそれで語られるべきだとは思う。


物語に介入していくのがモチベーションになる、というのは正しいし、パチスロ演出もある意味そういうことであろうと思う。自分の手がゲーム=話を進めているのだ、という実感。
では、それが途切れた、失敗したときどうなるか。運のよしあしだとパチスロ、選択肢(広義)ならRPGやADV、経験値があるなら時間。アクションの類なら自分の技術や知識が原因、ということになる。そこでどの「原因」を良しとするのか、というのは、物語とは別のところで問われるべきだと思う。そこには物語でも他人でもなく、モニター、プログラムと自分との問題だからだ。
運を嫌って技術を良しとする人もいるし、選択のみでは物足りない人もいる、一方で、運だけでも問題ないのもあるし、作業時間量で決まった方が楽でいい、という流れもある。実際自分も色んな属性を持っているし、グラデーションがある。割ける時間によっても違う。だが、それはプログラムとの関係であり相性だ、とはいえると思う。


そして、人はゲームを信頼する。操作感とかはあるとしても、基本的にその原因の提示が自分の性にあっていたとき、人はゲームを信頼する。食い違うとクソゲー、となったりはするがご愛嬌。
信頼した上で、プレイヤーはゲームにアクションし、ゲーム側がそれに応える。その内容をプレイヤーは受け止める。そのような関係がゲーム的な感覚だと自分は思っている。ゲームとして成功した、という話をするなら、その信頼関係を多くの人と結ぶことができた、という方向で見ていきたいと思う。

蛇足。クリスクロスという小説の(ほぼ)ラストシーンで、GMと言うべき人が「君が勝てる(クリティカル)確率は20%だ」みたいなことをいうシーンがある。俺はこれをとても美しく感じる。