「しない」

続行。

する/しないで切ってしまうと「選択する」という行為にまで範囲が及んでしまうのでやはりよろしくない。もう少し狭い範囲の話だ。
狭いところから詰めていくと、それは恐らく「繋がる手段」というところに繋がっていくのだろう。「しない」ということを共有するために「しない」を選択するということに対してネガティブな感情を持っているという話だ。最初からそう書け俺。
もっと言えば、そこで「しない」を選択したのならば(向き合うとするならば)向き合うべきは「する」側の人間なわけで、そこで「しない」を選択した人間同士が向かい合っている雰囲気を感じ取るとそこに拒否反応が出るのか。
ああでも「しない」という選択肢を選ぶという行為を「する」、とも書けるわけでそこの切り分けはどこで行われているのか。するとしないの分岐点はどこにあるんだ俺の中で。
そしてそこまで突っ込むと「競技のルール」的な要素をどこかに求めてしまうのだろう恐らく。それはそれでいいのだろうが、そこまで行ってしまうとこぼれおちる要素が少なからずあって、言ってしまえば俺はそのこぼれおちる要素をすくい取ることができないので「下手」なのだろうな。何かが。・・・と自虐気味に話を落とすのを突っ込まれたことがあったのでもうちょっと前に進めると、そこで「下手」な部分をなんとか誤魔化したとしても循環が目的化した「しない」にはやはり拒否反応が出るのでそこをどうにかしないと俺が求めるものがこぼれおちていたらいったいどうしたらいいんだという話になってだいぶどうしようもなくなる。前に進んでいない。