セカイ

セカイ系とかなんとか言われるわけなんだけど、自分⇔セカイ、というか、セカイに向かって何かを言う自分、という概念(心性?)は何かしら持っておかないといけないよなあ、とか思った*1

なんだけれども、そのときのセカイはセカイでなくてはならなくて、パーマリンクできるようなものじゃいけないんだと思う。それは切り取られたセカイの一部に過ぎないわけだし、そうした瞬間に「自分とセカイ」という物語が、他人の物語にすりかわってしまう、とでもいうか。


一月前に言い淀んでいたことはそういうことなのかな、などと思った。

*1:それが上遠野浩平秋田禎信から我々が学んだことではなかったか、ってそれは俺だけなので一般化すると、「物語」になるのかしら