たくさん読んだ方が良いよ話の反応
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20061001#p1からの続き
http://fragments.g.hatena.ne.jp/mutronix/20061003/p1
ブクマから
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20061001%23p1
# 2006年10月03日 feather_angel feather_angel web 脊髄反射をせずに文意を読み取って欲しいという気持ちは分かるのだけれど、例としてあげられてることを最初から要求するのはちと酷な気も。記事内容にも左右されることでもあるし、難しいな
# 2006年10月03日 otsune otsune netwatch 読者が前後の文脈を読まずに短絡反応しない啓蒙も良いけど。作者が邪推ベースで「脊髄反射・批判・炎上」と反感を覚える事自体を止めようという啓蒙も必要じゃね? 他民族にも理解出
わかってきたわかってきた。
やっぱり「反応する(してくれる)人」に対して何かを要求する形というのはよろしくない。俺自身もこの前の文章を書き始める前はどちらかというと、「すぐに反応する人」よりも「大事なところに無反応な人」の方を強く意識していたはずなので、そこのターゲットがずれていたのだと思う。
そこは反応が欲しくて文を煽り気味にしてしまう若者の性だと思って許してください。
俺が書いた根っこの意図としてはmutronixさんが書いたようなことそのまんまです。特効薬ではなくて予防接種というか。(って病気に例えるのがまだ炎上云々にとらわれているかもしれん)
あとotsuneさんの言うところの邪推をなくす方向が重要なのは全くその通りなんだけれども、「書く人」「書いたものに反応を受ける人」をこの問題に組み込んでしまうと「どっちが正しい」みたいな要素が発生してよろしくない。なので、「読む人」だけにターゲットをあわせなければならない。そうなると必然的に「書き手読み手のやりとり」においてどうするか、というのではなしに、純粋に「読み手の皆さんへの呼びかけ」という形を取らないといけない。そしてそれはブログという形式ではかなり困難なような気がする。
メディア論というかブログ論っぽいもののメモ
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20061002#p4
- ある層の人々にとって、ほぼ全てのweb上のトピックは人格や肉体を伴わない「情報」あるいは「概念」として扱われる。
- webなのに、それはひどくテレビ的に思える。「画面の中のできごと」。(ここで夜の湾岸戦争やビル崩落映像を引っ張ってくるのはベタすぎるだろうが、近いとは思う)
- 内輪内で情報として消費する行為は
- 「そのひと*1」に対してのコミュニケーションとは考えない。
- 「我々がどう判断(→処理→消費)するか」だけが残る
- 情報としての価値は、「内輪内でのイジりやすさ」に収束していく
- さらに段階が進むと「どうイジるか」がパターン化、先鋭化していく。
- 俺が何かを書く場合は、なるべく「人間」として捉えて、コミュニケーションとして成立するように努力はしている。*3
- とはいえ、こういうのは足枷になったりもするわけで、そこらへんをとっぱらったのがモヒカン宣言だったり「2chは議論に適する」といった考え方か。用途と目的。
- 「情報」/「人間」のスイッチングというのは誰しもどこかで行っているものではあるだろう。
- 昔はテレビ新聞⇔現実でオッケーだったのだろう
- webだとその境がない
- 昔はテレビ新聞⇔現実でオッケーだったのだろう
- 判断基準がある
- 規模、バックグラウンド、記述や発信のスタイル、現実的距離、「生活圏」との距離、リアリティ、プロアマ(カネやメシの問題)、匿名顕名、共通言語