メディア論というかブログ論っぽいもののメモ

http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20061002#p4

  • ある層の人々にとって、ほぼ全てのweb上のトピックは人格や肉体を伴わない「情報」あるいは「概念」として扱われる。
  • webなのに、それはひどくテレビ的に思える。「画面の中のできごと」。(ここで夜の湾岸戦争やビル崩落映像を引っ張ってくるのはベタすぎるだろうが、近いとは思う)
    • なので、言及通知(としてのトラックバック)という概念は存在しない。雑誌や人形に対して「ちょっといいですか」と問いかけたりしないように。
      • でもトラバ(言及通知)の有無と配慮の有無はイコールではない。互いにリファラで十分と考えているケースもあるし。
  • 内輪内で情報として消費する行為は
    • 「そのひと*1」に対してのコミュニケーションとは考えない。
    • 「我々がどう判断(→処理→消費)するか」だけが残る
      • 情報としての価値は、「内輪内でのイジりやすさ」に収束していく
  • さらに段階が進むと「どうイジるか」がパターン化、先鋭化していく。
    • 政治ネタ、国際ネタ、芸能ネタ、犯罪ネタ*2は既にこの仕組みに染まりきっていると思う。(俺がここらへんのことをブログに書かないことにしている理由の一つ)
      • まあようするにお茶の間でワイドショーやニュース番組を見て団欒するのと等しい(それは対象や手法によっては悪いこととは限らない)
      • 結局のところ、俺らは地球の裏側(もっと言えば"他人")のことに本当の意味でのリアリティは感じることはできない、とかそういう
  • 俺が何かを書く場合は、なるべく「人間」として捉えて、コミュニケーションとして成立するように努力はしている。*3
    • ちなみにこれは「yes/noということ」とは別の問題である(ここらへんは「noと言う際には礼儀が必要」というような話にも繋がる)
      • 「人間」とのコミュニケーションと思わなければ礼儀は必要なくなる。先鋭化。
    • どうしても「人間」として捉えられなかったり、そこまで必要を感じない場合は儀礼的無関心を発揮したり、一般化や両論併記などのテクニックを利用する。あと人格とそれ以外を切り分けたりとか。
      • もちろんそこには利己的なリスクコントロールの意識もある。誤解を恐れずに言えば「ネットのマナー」。
    • 読む場合は単純に情報として処理する。意図的にそうする場合もある。
  • とはいえ、こういうのは足枷になったりもするわけで、そこらへんをとっぱらったのがモヒカン宣言だったり「2chは議論に適する」といった考え方か。用途と目的。
  • 「情報」/「人間」のスイッチングというのは誰しもどこかで行っているものではあるだろう。
    • 昔はテレビ新聞⇔現実でオッケーだったのだろう
      • webだとその境がない
  • 判断基準がある
    • 規模、バックグラウンド、記述や発信のスタイル、現実的距離、「生活圏」との距離、リアリティ、プロアマ(カネやメシの問題)、匿名顕名、共通言語

*1:ブロガー、っていってしまったほうがいいか

*2:を主に扱う一部

*3:まあ形式としては正面きって意見するような形になることもあれば宛名を書かずにラブレターを投函するような形になることもあるが、いずれにせよ「人間」として配慮する、ということ