ゲームにおけるサドマゾ
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20070513#p2
これの続き。
- 作者: 永田泰大
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2001/10
- メディア: 単行本
- 購入: 8人 クリック: 22回
- この商品を含むブログ (24件) を見る
成沢大輔:ゲームやる人って、サディストタイプとマゾヒストタイプがあると思うんです。
永田泰大:ああ。
成沢大輔:僕って典型的なマゾタイプなんで、何度でも何度でもやり直して、「抜けた!」っていうときのカタルシスがたまらないんですよ(笑)。
永田泰大:僕も完全にマゾですね。まあ下手ってのもありますけど(笑)。サドの人って、たとえばうちの編集部だと”ゲームをバラす”っていう言いかたをするんですけど、すごく合理的にプレイしますよね。
成沢大輔:僕、サドの人とマゾの人では、マゾの人のほうがアタマの使い方が断然上だと思うんですよ。
永田泰大:というと?
成沢大輔:あの、サドの人って外から関与したりされたりというわかりやすいうれしさだと思うんですよ。自分がこう、ピシッとぶつことによって相手が「ウッ」となるのがうれしいと。ところがマゾの人は、いじめられたときにアタマの中でそれを快感に変える回路が働いてる。
成沢大輔:何度も挑戦してるときって、ツラいんだけど、「快感になるはずだ」という強い確信がありますよね。逆にそれがないとできないし。
永田泰大:いいゲームほど、マゾの人が何度も死ねるゲームというか、何回でも痛めつけられるというか。
成沢大輔:そそそそそそそ
永田泰大:ここでなら痛めつけられても大丈夫という安心感があったり。
成沢大輔:ですよね。「ゼルダ」なんてのは究極のマゾゲームで、たまらないものがありますよね。
永田泰大:(笑)。見た瞬間に頭抱えたりからね。
成沢大輔:水の神殿に入った瞬間に「ええええ〜」って(笑)。
永田泰大:「なんか、水を上げたり下げたりさせる気でしょ!」とか(笑)。
成沢大輔:自分がどう痛めつけられるか想像できるんですよね。ギミックのからくりを想像するんじゃなく、「ツライんだろうなぁ」という。
永田泰大:やっぱ頂点にいったときの喜びはマゾのほうが大きいのかな。
成沢大輔:そうだと思いますよ。
永田泰大:ときどきうらやましかったりしますけどね。サドにはサドにしか見えない風景というのがあるじゃないですか。バラしていって、無駄なところを切り捨てていく感覚が彼らにはあるんだろうなと。
といった感じの話が元ネタ。
興味がわいた人は是非買え。というか買ったほうが良い。買うべき。
以下はここから広げていった話
- 一見、「サド=やりこみ」「マゾ=カジュアル」のように見えるが、そうではない
- むしろ、ゲームを熱心にやる人は必ずサドマゾ両方を持っている、といってもよい。
- 「クリアを目指す」「ゴールを目指す」「熱心に反復する」という点はゲーマー共通。
- つまりサドマゾ以前に「そのゲームを愛しているか」「熱心にやるくらい好きかどうか」という問題がある。
- 二人のゲームを愛するゲーマーがいた時、その愛し方の差として現れてくるのがゲームにおけるサドマゾ。
- マゾ性というのは、「触っているのが楽しい」ということに近いか。
- 「新しいものに触れる」という楽しみはマゾ性に近いが、ゲームそのものの楽しみといっても良いのではないか。
- 「ボスを倒して次の面に行く」だとか、町やダンジョンを探索してまだ見ぬ何かを求めること。
- STGやRPGは「長く続けること」「先に進むこと」がゲームクリアに直結するのでサドマゾ性が曖昧。
- サドマゾというと、どちらかが一方的に何かを与えるイメージだが…
- ゲームというのは「操作に応えて何らかの反応が返ってくる」というのが根源的なものであるので、「ゲームで遊ぶ」ということはサド的でもありマゾ的でもある。
- 「(新しい何かを得るために)ゲームを進める、クリアする」といった「目標」「ハードル」はどうしても組み込まなければならない要素(ノベルゲーだとこれが「ボタンを押す」まで簡略化されている)
- なので、「クリア、目標を目指す」というのをサド性といってしまうと大雑把過ぎるか
- が、「ハイスコアを目指す」といったサド性というのは確実に存在する
- 逆にマゾ性としては「プレイしているだけで楽しい」か。
- 「プレイしているだけで楽しい」から「ハイスコアを目指す遊びもやる」という両方やってる人もいそう。
- 逆にマゾ性としては「プレイしているだけで楽しい」か。
いまのところこんなところ。