糸井重里メソッドの限界

モヒカン族関連。日頃考えていた事も絡めて少し書く。

砦のリンクから
「モヒカン族」に関する言及 - inspfightmanの日記

言ってることは間違ってないんだが、上からモノを言うような姿勢が鼻に付いたのを覚えてる。

http://blog.livedoor.jp/roodis_tones/archives/50175435.html

・人を見下ろすような態度のもの

といった表現がされる。
また、そうではないものとして「糸井重里メソッド」が挙げられる事もある。
こういった話の中で「余計な装飾語を避ける」「淡々と指摘する」ケースについてはあまり触れられないのも興味深いのだがそれは置いといて、引用部分のようなことは糸井重里メソッドによって解決可能なのか?というのが自分の疑問であり、不安である。

糸井重里メソッド - モヒカン族で解説されてるような事は良い事だと思うし、活用していきたいと思う。けれども、自分が引っかかっているのは「糸井重里はリンクもトラックバックもしない」という点にある。

多少過激な言い方をすれば、「糸井重里メソッド」は「イトイ」が「みんな」に呼びかける形を取っているからこそ機能するものではないのか。我々が特定の相手に対してリンクし、コメントし、トラックバックした行為そのものが「上から見下して鼻に付く」と思われる可能性は、無いとは言い切れない。

鼻に付く態度だとか、見下す優越感だとか、そういったものを批判するのはわかる。わかるけれども、それによってモヒ/ムラの根本にある問題を覆い隠す事にはならないだろうか。

モヒ/ムラの最も根本的な対立は、言葉以前の「リンク/トラックバックする」という行為、あるいはもっとさかのぼって「言及する」「ほのめかす」「閲覧する」といった行為から生じているもののように思える。(無断リンク論争は言葉や態度の問題だけではないだろう)

「ネットはサザンクロスシティ(戦場)だ」という表現は、言葉の硬軟だけの問題ではなくて、「個人対個人」が否応にも発生してしまう、ということだと解釈している。糸井重里メソッドは重要だが、それは個人対個人を避けるための方便ではなく、個人対個人という戦場においての配慮として使われるべきではないか、と考えた。


何か脳内を表現し切れていない気がするけど、きりがないので今日はここまで。

追記:モヒカン族に関する事として書いたが、冒頭部分の引用における定義(真とか似非)の問題には触ない。彼らがモヒカン族活動を知り、触発されて思いついた憎たらしいあんちくしょう、くらいの理解で捉えている。