恨み的なもの、空気を読む的なもの

日本で言うところの「恨み」は「期待を裏切られた事実」そのものに向かう感情なので、それは消えない。裏切った本人が死のうと更生しようと「事実」は変わらないからだ。
あとhttp://setofuumi.at.webry.info/200602/article_5.htmlという話とか、身分とか村社会の日本文化が云々とか。

というのが、聞いた話の受け売り。

話は変わって、ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラムという文章がある。要旨は「空気じゃわからんから言葉にしろ」という風潮は堅苦しい、けど空気じゃわからん。なので犬を見習って言葉を一回捨てよう。といった具合に読んだ。

感想を言うと、「空気を読む」を肯定するのは納得できる。けれども、そのために「言葉を禁じる」ことを持ってきた事にかなりがっかりした。
言葉があろうがなかろうが、わかりあえれば幸せなのだ。わかりあえない時に不幸が生まれるのだ。その不幸を無くすのに「言葉を禁じる」ことがどれだけの効果を生むというのだろう?むしろ不幸を増やす事になるんじゃないのか?そして、その不幸を野放しにしておいて幸せな人達が幸せならばそれでいいのか?

ここで話は「恨み」に戻る。この恨みの怖いところは、「裏切られた」と感じた瞬間に、「裏切られた私」「裏切ったアイツ」という関係が固定されてしまうところにあると思う。そしてそれは「裏切った事実」がある以上、回避も逆転も解消もできない。
そして、この「裏切り」に「空気を読む」が重なった場合、ひどく不幸な状況になってしまう。

過去に別なところでこういう文章を書いた。

「空気を読まないことへの憎悪」というのは恐ろしい。
何が恐ろしいかといって、それを求める人というのは「空気を読め」という期待願望を持っていながら、それをオープンに対象に向かって要求しない。そしてその期待願望が思い通りにならない(伝えていないのだから当たり前だと思うのだが)となるとその思い通りにならない対象に向けて何の屈託も無く憎悪を向ける。その憎悪を向けられる対象からしたら「んなこと言ったって俺エスパーじゃねぇしお前の両親でもないんだから無理に決まってんだろう」と突っ込みたくなるところだ。
空気を読め、という要求はつまるところ、「私はこれこれこうなってほしいからあなたはこうしてください」という欲望なわけで、まあそれが数十年数百年続いていたり、明文化されてはっきりしているものにのっとって要求されているなら分からなくは無いけれども、そこまではっきりしないことについて「察して私の思い通りに動け」というのは正直俺のようなダメ人間にはしんどいことこの上ない。みんなすげぇなぁ。

これに対して『|・ω・`)』という人がコメント欄でこういう事を書いた。

空気を読む読まないっていうのは、とどのつまり色んな立場の人の考えをどの程度優先しているか、という意思表示じゃないかな?(『考え』ってのは、好みや思考や主義主張やなんでもごったにしたものです。)

大概の『空気を読む人』は、言われなくても察し、常識的な流れや集団の論理を重視する。
『他人の考えより自分の考えが優先だね!俺の考えはこうですから俺は自分の考えに従います。個人主義です』という意見の人は一般的には、自分の考え>他人の考えという価値観を持っている。これは相当な覚悟と能力が無いと、容易にオレサマ主義者に陥ってしまいがち、要するに謙虚さを忘れてしまいがち。個人主義でいきたい人は、自戒を忘れずに、並々ならぬ謙虚さを心がけるべきかなと思う。

正直、ゾっとした。その時は丁寧にレスしたけど。自分が想像していたのは「わかりあいたいにも関わらず、空気が読めなかった人間」であるのに対して、このコメント主は「空気の読めなかった人間=空気を読まない個人主義者」である事に何の疑いも持っていない。しかもここで言う個人主義者というのは、「謙虚でない人間」であり「わかりあおうとしない人間」というレッテルまで貼られている。
彼の中では、「読みたいのに読めない」という可能性が、「読まなかった」で塗りつぶされている。こういうケースについて、冒頭のダーリンコラムは全く触れていないと感じる。


「空気を読む」ことで上手くいけばそれはそれで素晴らしい事だと思う。俺もそうなりたい。けれども、それを失敗してしまったときに「空気を読まなかった」という事実だけで野放しにしていてはどうしようもない。そういう時にこそ「言葉」にしていかなければならないのではないのか。そしてそれは「空気嫁」という3文字の言葉以上の言葉で。