わかる/わからない(言葉の難易)問題

言葉の難易とそれを指摘することの問題

というのを薄ぼんやりと考えるのがライフワークなのだが、気になっている部分が少しずつ形になってきたのでメモ。ついでにタグのリンク:はてなブックマーク - 難易に関するsetofuumiのブックマーク

世の中の言葉というのは、「わかりやすい」と「わかりにくい」で区切られていて、どうやら「わかりやすい」方が一般的に評価が高い(そして「わかりにくい」は評価が低い)らしい。俺にはこれがいまいちよくわからない。
で、それというのは俺が「わかりやすい」「わかりにくい」で分けずに、「わかる」「まだわからない」で分けているせいではないか、と思った。

「まだわからない」ものは、google様に聞けば5秒後に「わかる」かもしれないし、翌日学校なり職場なりで急にひらめいて「わかる」かもしれないし、何ヶ月か経って本を読んだりwebをうろうろしている時にヒントを得て「わかる」かもしれない。それから「ああ、これは恐らくあすこらへんの知識を一生懸命集めれば理解できるのだろうな」とアテが付くこともあるし(大抵はめんどくさがって放置するけど)、見当も付かないので保留して放置してそのまま忘れてしまう、ということも当然ある。そういった「まだわからない」ものというのは評価したり優劣を判断できるものではない、と俺は思う。というかその段階でわかったつもりになってアレコレ言ってしまうのは後々自分を大変困った状況にしてしまうような気がするし、それによって得をするよりは損をする方が多いだろう、と俺は考えるので迂闊に触らないようにしている、とも言える。

対面の外国人と会話をするだとか、とにかくうまいこと言って商品を売れ!といった広告代理店的な目的があるのなら、「それはわかりにくいので目的が達成されないよ」という意味だと納得できるんだけれども、そういった目的がない場面で「わかりやすい」「わかりにくい」と分けてしまう(そしてそれが評価や優劣に繋がっていく)心理というのはどこらへんから発生しているんだろうか。

[後で考える]

思考実験:「言語が異なる文化の中で"私(我々)の言語のバージョンも用意してくれ!"という主張はどう判断されるか」「その主張が指差すものは何か、またその指差すものの目的は何か」