「しない」教の信者、というフレーズを最近考える。
というのは数年前の自分が色々とすることしなかったせいでだめなことになってたのもあってここ最近の俺は「しない」ことにあまり価値を見出さなくなってきているのだけれども、それでもやっぱり世の中には「しない」ことに価値がある、という価値観が結構あるわけで、それというのはまあバッサリ言ってしまえば「しない」我々は素晴らしい、「する」彼らはろくでもない、というルサンチマンなんだろうけれども(○○したら負けだと思ってる、ってか)、それはまあしょうがねぇのかなぁ、とか思ったりしないことも無い。誰もが誰も超人じゃねぇし俺もちょっと前まではそうだったわけだしまだ抜けきってないし。

というか何なんだろうな。彼らは本来的に「しない」=価値アリと素朴に感じているのか、それともオフラインでの反動としてのネット上での振る舞いなのか(つまりオフラインの一場面では過剰に「しない」が排除されているので、それをオンライン上で補給している、的な)。まあ俺にわかるわけが無いので気になっても仕方が無い。

まあそれが醜悪に見えるというのは俺を見ているようで嫌というのもあるのだろうけれども、そこでの「価値」の持たせ方があまりにも近視眼的であったりローカルな循環に過ぎなかったり(ユープケッチャ*1的)どこをどう見ても後出しであったり明らかに個人の判断じゃねぇなと思えてしまったり露骨に当事者性が欠落していたりするのが原因だろうから俺も気をつけたい。無理やりまとめた。

*1:自分の排泄物を食べて生き続ける虫