恋愛話

とまあ人生経験を色々とすっ飛ばしている俺であるがそんな中
http://d.hatena.ne.jp/nitino/20061019という話が。
脱オタの暗黒面に落ちてしまった人との関係の体験談、ということでいいんだろうか。
読んでいて、これは2006-09-08 - 瀬戸風味@はてなを書いていたときに頭の中にあった、"しないことに価値がある"という人だったのだろうな、と妄想した。それ("しない"に価値を見出す行為、あるいはそれによって繋がる、繋がろうとする行為)は何らかのエネルギーになることはあるし、もしそれで他人と繋がってハッピーになれたらそれはそれでまあいいんじゃねぇの、といった具合ではあるけれども、やっぱりどこか歪なものだし、迂闊にそれにすがってしまうとこの話の彼のようになってしまうということだろう。


余談になるが、2006-09-08 - 瀬戸風味@はてなを書いたときにたまたまいくつかの場所からリンクされて反応を見ることができたのだが、概ね「しないとうじうじするよりも何かやった方がいい」というような反応だったと記憶している。これはまあその通りで何の異論もない。実際そういう感想を見込んで文章を書いた自覚もある(特にタイトルは)。んで今回のnitinoさんの体験の中の彼も「"しない"(非オタ)にすがっちゃう彼はかっこ悪い/ろくでもない」というような評価に落ち着くのだろう、と思う(nitinoさんの意図は色々とあるだろうが横に置いておく)。


そこに落ち着くことには、繰り返すが何の異論も無い。俺もそう思う。が、ここでもう一段階ひっくり返してみると、「こうならないようにしましょう」が「こうではない我々はすばらしい」になっちゃう危険性もあるよね、と言えるのではないかと思ったりもする。なので俺は9月に書いた内容は「しない教の信者」とかわざわざ新書のタイトルをパクっておきながらどこか歯切れの悪い文章になってしまったかなあ、と今でも思っていたりする。
「しない人」はろくでもないのでそうならないようにしましょう、それはいい。ただ、「しない人」が目の前に現れた(そしてそれが無視できない)ときに俺らは何ができるんだろうね、というのは頭の隅にでも置いておきたい。それこそ、nitinoさんが「死ね」と言われて別れることになったケースはどっちにとっても不幸だったろうし、もっと不幸なケースもあり得たのだろうから。