カネの話をする時、視点がどこに向いているか

というようなことを時々考える。

自分の感覚だと、生活*1や娯楽においては「自分がいかに満足するか」が最優先事項で、カネの行く先や多寡は優先順位が低い。生活においてはとにかく「自分が死なない程度にメシを食って満足すること」が何よりも優先されるし、娯楽に関しては「捻出できる範囲の娯楽費用で最大限に娯楽を享受すること」が最優先される。


なのだが、(経済やビジネスの話題はともかく)生活や娯楽の話題でも「自分の満足」よりも「金の行く先」に視点を置いて語られるケースを多く目にする(そして異常に盛り上がる)ような気がしている。観測対象が偏っているのかもしれないが、そういったものを読んでいるとどうにも違和感がある。そこで盛り上がって語っている人々は「自分の満足」をどこに忘れてきてしまったのだろう?といったような。


確かにカネの話題というのは語りやすい。今のご時世、小学生でも「自分の金を思ったように使う」感覚はわかるだろうし、なにより損得、貧乏金持ちといった二元論で語りやすい。それはわかるのだが、生活や娯楽に関してはあくまで「満足」が先にくるのではないかと思う。
「金の行く先」に関する話題が生活や娯楽に全く影響がない、というのは言い過ぎとしても、それは「自分が満足」する、あるいは継続していくために「金の行く先」を気にする、といった順序だろう*2
そういった話題を語る際に、「自分の満足」に関して語らないままに「金の行く先」だけを延々語っているようなケースは本末転倒もいいところだと感じてしまうのだが、思うにそういった話題の盛り上がり方というのは、「金の行く先」を語ることそのものが生活(消費)や娯楽の範疇に入っているのかもしれない。そしてそれはそれで別に悪いことではないだろう(雑談として)。


ただ重要なのは、そういった話題、語りというのは生活や娯楽に関する「自分の満足」、そしてそれを生産、供給することとは離れた場所の話であって、「満足」を最優先する立場であるなら本末転倒な話題に巻き込まれないように注意する必要がある、というところにあるように思う。

追記:自分の理想としては、そういった「満足」を語った先にある「カネの話」というものはとても大事だと思っていて、そういう話を読みたいし出来る事ならば参加したい、そして自分が語る際には出来るだけそういった話になるようにしたい、と考えている。

*1:の生産ではなく消費の側面

*2:美味い米を作る農家が生活できるように流通、経済、価格や輸入について考える、といったような