オタクのなりそこないであるところの俺がオタについての話に対して抱くもの

http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20061228/1167340035
ここから始まって
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20061229/p2
戦ったり楽しんだりオタクって忙しいのかな。 - たまごまごごはん
こんな感じに続いているようなんだけれども

宮崎勤あたりの話だとか岡田斗司夫の発言に対してどうこうって部分は素直に読める*1んだけど、読んでいてどうも腑に落ちないところを言語化してみる。

熱心なSFファンである山本弘さんは、J・G・バラードらの「ニューウェーブ」運動がSFに「文学」をもちこんだことによってSFは変質してしまった、と嘆きます。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20061229/p2

それ以外で、相手のオタクが自分の好きなものだけ見ているのをどうこう言う理由ってないんじゃないかな。もちろん、よいと思ったものを人にすすめたりすすめられたりするのは好きです。人との交流ですし。ただ、上から見下ろしてエリート視点になり、自分の価値観を押し付けるのが本当にいいかどうかは、また別の話。押し付けられるとなんとなく拒否したくなっちゃうもんね。
そうしないと守れない壁があるのも確かだったのかもしれません。人によって違うのでなんとも言えません。が、指をさされた方はちょっと切ないネ。
戦ったり楽しんだりオタクって忙しいのかな。 - たまごまごごはん

なんかもう蛇蝎のごとくというか宗教上の悪魔かのような勢いで嫌われてる層があるみたいなんだけど、俺は文面ほどには不快感を感じない。というか、「嘆く」「押し付ける」と表現するほどの「語り」をできるだけのエネルギーを持っている、というのはそれだけで面白いと思うんだけれどどうなんだろう。俺としては「語れない」よりは「語れる」ほうがよっぽど楽しいし面白い(これを書いてるお二方はその点で「語れる」人なんだけれども)。
テレビで、動画で、古本屋で、どこでもいいけどたまたま見つけた作品を気にいったとして、その後に「これ作った人をもっと知りたい」であるとか「これ好きな人の話を聞いてみたい」とか思うのは俺だけではないと思うんだけどそういった感情が省みられていないような感じを受ける(そういう人間にとっては熱を持った"語り"が世界に溢れていた方が都合が良い)。

あと微妙に引っかかるのが「上から」とか「エリート」とか「押し付け」とか俺はどう判断するのかよくわからない。皮肉っぽく言うと「makaronisanという人はそういう判断をできるだけの能力を持ったエリートなのだ上から物を言いやがってギギギ」と思ったりもする。いや思ってない。どっちだ。
いやまあ岡田斗司夫であるとかそこらへんの「メシ食ってる人」を突っつく分はいいんだけど(いいのか?)、俺としては「それって『作品語り』をする、あるいは聞く際に必要な視点なの?」と感じる。
というか、上だろうが下だろうが押してようが引いてようが「作品語り」をするあるいは聞く、読むのが俺はものすごく好きなんだけど、それは異端で、今はそんなことよりも上下や押し引きのほうが優先度高いのかあ、と思わざるを得ない。
繰り返すけれども、俺にとって熱を持った語りが世界に溢れている方が都合が良いんだけど、どうも世界はそっちには進んでいないようだぞ、と感じてしまったりする、という話。


余談として、(未読なんだけど)「ヨイコノミライ」の話をいくつか読んでいて俺が抱いた危惧は「この"痛快な指摘"が形骸化して"お手軽に人を蔑める道具"として機能し始めるのではないか?」というものだった。

*1:それこそ世代によりけりだなあ、と思う