「メディアはマッサージ」的な部分が、いわゆるブログ論的な文章には足りないのではないか、という話

自分は「メディアはマッサージ」というのを「メディアに"触れている"ということは、同時に"触れられている"ということでもある」という意味だと理解しているんだけれども、こういった部分があまり語られないな、と思ったのでいくらか書く。


いわゆるブログ論的な文章を大雑把に分けてしまうと、「書くこと」に関することと「読むこと」に関することの二つになるように思う。
「書くこと」なら、「共感を呼ぶ文章を書きましょう*1」であるとか、「書かれたものは世界中に発信されるのです*2」であるとかで、「読むこと」なら、「人は信じたいものを信じる*3」であるとか。「何を言ったか、誰が言ったか*4」の問題あたりは両方含むんだけど、それでも「書く」と「読む」は別々の問題として処理されている印象。
これらはどれも有意義なものだとは思うんだけれども、webというのは双方向性がウリなわけで、「書く」「読む」をスッパリ分けてしまうと抜け落ちる要素があるのではないかなあ、と思ったりする。


webで何かを「書く」ときに、それが「読む」行為と全く関係ない、ということは少ないように思う。そういう瞬間はあるかもしれないけれども、創作を発表するにしても「反応を読む」ことに絡んでくることもあるだろうし、「何かを読んだ感想、反応」を書くことをメインにしている人は結構多い。あと、「読んだ」ところをリンクしていくつものURLを「書く」だけの人なんかも多い。


というか、人間が何かを「書く」あるいは「読む」瞬間には、その行為を発生させてくれる「他者」が存在しているものだ、という感覚がある。そういった部分を多くの人間が意識するようになれば世界が俺にとって都合が良くなるのでそうなって欲しいなあ、と思うことが最近多い。
「どう読もうと自由だ」「どう書こうが自由だ」というのは当然ではあるのだけれども、それは「その行為を引き起こしてくれた他者」が存在しているからこそ発生した行為であって、その存在に対する意識、感謝というと大仰になるけれども、「他者」がいるからこそ自分はこうして何か行動を起こしているのだ、という意識がもっと普及すればいいのになあ、ということは思う。どうも「私に影響を与えてくれた人」が軽視されて「私に都合が良い人」だけが意識される風潮が強いような気がしているので。


ちょっとわかりにくいダメな文章になった。ここらへんもうちょっと洗練さしていきたい。ちなみにこの文は今まで色々読んできたwebのあらゆる文章に影響を受けて書かれました。ありがとうweb上にモノを書いた人たち。