握る小指

とは言うのだけれども*1、我々が誰かの手を握ろうと伸ばすその腕は液晶モニターに激突してなんか線が入っちゃう、とかそういう即物的な話ではなく、競技者に真に必要なのは沿道の観衆の振る旗ではなく好敵手(時にはラビット・ランナー*2)であるのだよな、といったようなことを思う。そして競技のフィールドというのは飛び入りで入れるものではないし(係員が不在だとしてもラビット・ランナーにすらなれない、という意味で)、かといって水を含ませたスポンジを投げつける行為は生卵を投げるのとどれだけの違いがありや、とか*3
と、こういうことだけを掘っていくとあまりいいものは掘り出せないので、ここから、では競技者たる自分はどうあるべきか、というところに持っていく。確かにまあ、沿道の応援のおかげです!と笑顔で言えばウケはいいだろうしそれが真であることもあろう。が、応援してね♪という方向なら、まあ、TBSあたりと契約すれば、みたいな話になったりもするだろうし、そもそもそれはタレントだ。じゃあ、前後にいる人や過去に抜いてった人や抜かれてった人のことをあれこれいじるのは、まあ、研究や反省なので真っ当ではあるが、んじゃそれで体が前に進むか、というと、まあ、進むかもしれない。中継の解説をラジオ持って走りながら聞くよりは沿道の観衆のほうがいいよね、という話が出てきたりしたがそれは置いといて、やはりそこはそういうのも含めて、誰かの視界に自分をフレームインさせる、というところになっていくのだろうかな。デジタル化で位置情報が衛星からわかる世の中だが、TVカメラは中継車にしか付いていないし、ケータイカメラは所詮ケータイカメラである。見守っているのはGoogleだしGoogleはお前のパパではない*4。なんかよくわかんなくなってきたな。
で、冒頭に戻るわけだが(わけだが、じゃねぇよ)、手を伸ばす、というのは結局のところ比喩なわけで、じゃあその比喩で表現されるものは何よ、ということになり、現在の環境やら技術やらに最適化されたそれというのはまだ発見されていないのだが、でも電波関連の技術が発明されて100年くらいはたっているので、それなりに色々学ぶことはあろう、とは思う。そして我々がそれにさらに付け加えていくことも可能だろう、とも。
書いていて思ったが、こういうのは結局、自分(id.setofuumiでもありいわゆる中の人でもある)のエクスキューズへと繋がっていくので、あまり格好の良いものではない。ないけれども、行動というものにはエクスキューズ、言い換えればモチベーションというのが必ずあるわけで*5、やはり俺は言い訳を書き連ねなければならないようにも思う。それが腕を伸ばすこと、いや、腕を伸ばす理由になるのだと信じて。筋肉を動かす信号を脳から神経を通して伝達させるように。

*1:c秋田禎信

*2:ペースメーカーっていったほうが通りがいいのだろうか

*3:どうでもいいがトレーニング中に生卵を送れば応援らしきものにはなるよね

*4:どっちかっつーとビッグなブラザーって言うの?よくわからんが

*5:素直な感覚!なんてものは存在しない!という素直な感覚