メモ書き(「みつを的」なるものについて)

流れ
→なんか「みつを」みたいないわゆるポジティブ文章がやたらウケるのはなんなんだろう、的なtwitterの流れ。詳細省略。必要そうならまとめる。
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要点は以下。

  • みつを/色紙売りみたいなのがバカ売れするのはどうかと思う
  • 「衣食住足りてる層に"清貧"思想がバカウケ」みたいなのが問題として近い
  • 幸不幸関連の話題は基本的に「既にハッピー(そう)な人」にウケる

あたり。
以下適当に語る。俺言語と偏見が多分に含まれることを最初に断っておく。



たぶん「結果/過程」と「欲望」あたりの話になるのではないか。「みつを的」なものがウケるのは「結果(結論)ありき」なところで、大抵の人というのは「結果」だけを求める。で、「みつを的」なものというのは「欲望を捨てたという結果」だけが書いてあるようなもの、に自分には思える。その欲望がどんなものであるか、とか、過程がどうだったか、とかは一切無視される。
そこで、「結果」を既に手に入れている人や、「過程」「欲望」にさほど悩みや苦しみを持たない人はすんなり受け入れられるけれども、そこで無視される部分に悩みや苦しみを持っている人にとって激しく拒否反応が出てしまう、という構図なんではないか。("清貧"思想が本当に貧乏な人にはウケないように)


思うに、問題があった時にまずなされるべきは、「欲望」が何であるか、をはっきり見据えることだと思っている。目的とか目標と言い換えてもよい。そして次に、その欲望を達成するための「過程」を知り、実践して「結果」を手に入れればよい。
そういったイメージなのだが、「みつを的」な文章、あるいは、文章を「みつを的」に捉えてしまう心理というのは、「欲望を捨てた状態」という結果がまず先に来ていて、他の事は明らかにされない。そして場合によっては、そうではないもの*1を「ネガティブ」と呼んで忌み嫌うことさえある。
はっきりいうと、そういった現象は、解決すべき問題(欲望)を持っている人にとっては、害悪、障害以外の何物でもないと思う。だから俺は、結果だけが書かれている、あるいは強調されている文章に対しては慎重になるし、もし自分が何かを書くとしたら「結果」ではなく「欲望」と「過程」を書くべきだと考えている。とはいえ、瀬戸風味さんはキャッチコピー的なものに対していくばくかの興味があるので「結果だけをウケるように強調して書く」という行為を時々やっちゃっている、とは言える。
「みつを的」なものは全て悪だ、とは言い切れないのだけれども、「何か問題を抱えている人」を念頭に置いて何かを書くなら、結果以外の部分に焦点を当てて書くべきではあるだろう、というところでまとめておく。


なんか歯切れの悪い文章になった。


追記:さらにここから「じゃああの4桁ブクマの話は(現象として)どういうことになんの」というのはまた別の話。あと「書いてあること」と「読まれ方」のギャップとか?それから「みつを的」なものの効能ってのも当然ある、んだけど、その効能はちゃんとはっきりさせとかないといけないよね、という方向になるか。

*1:この文脈で言うと、「結果以外を気にすること」