「テレビ」と「過去の自分」と「隣にいるひと」

id:nitinoさんのところで書かれてたテレビに太った方が出てきた話に関する感想っぽいメモ(パーマリンク失念)。

なんか一部「デブは是か非か」みたいな話やらテレビの情報の受け止め方やら俺言語でいうところの「テレビはあなたに話しかけてはいない」という話になっていたりしているが、そういう話として読むのはあんまり正しくないのではないか、とか思った。
勿論、「どうしてもそういう話ということにしたい!」と読者が強く願えばそれはそうなる。あとこの文章が、前述したような主張の「ため」に書かれている、とわかりやすく解説した先になんだかんだと語るのならわかる(のだけど、どうもそうは見えない)

で、じゃあ何の話かといえば、「過去の自分」について、そして、隣に座っている誰かに(ここでは恋人)どんな言葉をかけることができるのか、という話になるんではないか。
自分は、「過去の自分」をむやみに否定するのは嫌いだし避けている。まあしたりするときもあるだろうけど、口には出さない程度には避けている。ちなみにここでいう「過去の自分」というのは、属性や特徴など、変化しうるもので、「自分自身」とは若干ニュアンスが異なる。
で、ここでの彼女もそういう感じかな、と推測する。
が、「だから彼女は悪くない」とはならない。過去へのこだわり、コンプレックスというのは、欠点であり、弱さであり、克服するべきものである、という見方もあるだろうし、そもそも彼氏の「ただテレビで見た人のことを言っただけだ(それ以上の意味はない)」というのはある面で事実だろうし。
なんだけれども、じゃあ、その「克服するべき弱さ」をどうしたらよいのか?という話になってくる。
彼女は、道端で演説したわけでも、他愛もない話をするだけの友人を急に問い詰めたわけでもない。
「自分の過去」を知っていて、「恋人」という関係にある男性に、誰にも聞かれていない二人きり(と思われる)部屋の中で、語ったのだ。自分の過去について。過去の自分のために。
自分には、それは弱さの露呈、発露であると同時に、弱さを克服するための試みのように思えた。彼氏さんに対して手を差し出した、と書くと強引すぎるか。
で、結果は見ての通りであって、その試みは「不幸で悲しい失敗」に終わった、と言えると思う。つまり、「悲しい話だ」と瀬戸風味さんはこの文章を読んだのであった。なんとまわりくどい。
あと、彼氏が悪いか、というと、そうでもないかな、とも思う。悲しい結果を導いてしまった彼の受け答えは残念ではあるが、誰でも手軽に他人のコンプレックスを解消できたら精神科医もお薬もいらないわけで。また、この場面で単純に「同意」「賛同」だったのならよかったかというと、それも微妙に思える。もっとこう、「対話」というべきものが必要だったんではないかなあ。うまく言葉にならん。

余談。
デブの是非については各人が各人の生活圏の中で決めてくしかないよなー。で「私はこうですよ」という話がいくつも出てきたのはいいことだと思う理由は長くなるので割愛。リクエストあれば書く。
あとまあ、それとは別に、彼氏彼女、言い方変えれば、「自分にとって大事な人」と会話するときにどう振る舞うか、ってのはみんなもっと気にしていいんでないの、とか思った。いやまあ素性も知らんネットの人とのコミュニケーションの場なら完全スルーもありなんだけど。いや、それは俺の「恋人」という言葉への過度の期待みたいなものか。それもなんか寂しい話だなー。
あとこれは余談というか横道になるけど、この文章中のやりとりは誰が誰に「話しかけ」「話しかけられて」いた(と感じた)のか。そしてコメント欄、ブクマ、トラバで反応した人は誰に「話しかけ」「話しかけられて」いたのか、とか考えるとごちゃごちゃして楽しそうだと思ったりした。