永パ、あるいはゲーム等の世界ランキングとその公正さの話

http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110617#p1
http://togetter.com/li/178467


ここらへん前提。
仮想敵は以下
「ゲーセンスコア文化とか80年代の話なので古い」
「世界ランキングとか自分には関係ないのでどうでもいい


まず、リンク先のやねうらおさんの話は体験ベースで書かれているので、古いといったらそりゃ古いし、ゲーセン文化やいちプレイヤー(スコアラー)視点との複合として書かれているので、挙げられているアプリゲーあたりも含めたゲームプログラム全般に「であるから永パは忌むべきものであり肝に銘ずるべし」とするには無理がある部分はある。


自分としては「世界ランキングは公正であるべき」という話として読んだ。そこからは抜粋のほうにだいたい書いた。世界ランキングやソーシャルな要素は非常に現代的な問題だし、そこでランキングがうまく機能する場面は確実にあると思っている。
多少補足すると、「実機とTASレベルのレギュレーションの違いが生じる「世界ランキング」は望ましくない」というのは混在するのがよくない、という意味。それなりにプレイして自分なりのプレイができるようになったゲームにおいて、なんらかの手段で「攻略法」を知った時、それが自分のプレイとまったくかけ離れているのと、技術や発想はともかく「地続き」と感じられるのだと後者が良いよね、といった感覚的なものではある。


少し話を広げて、たまに自分がよくする話として

「野球好きの少年(あるいはオッサン)がイチローの好プレー集を見たらおおむね『すげー』っていう感想が出る。ビデオゲームの好プレー集になると『こんなことはできない』『難しすぎる』『ゲームとしてダメ』といった感想が割と出る。なんで違うのか。」

というのがあって、これは「見て楽しむことと実際にやることが分離できないのは残念*1」といったニュアンスで言っているんだけれども、それだけ「ビデオゲーム」というのは万人に開かれている、といった見方もできる。「難しすぎる」と口をついてしまう彼らは、ある程度の経験、知識を有しており、自分がプレイする、していることを想像できるがゆえに、そういったコメントをしてしまう、つまり潜在的なプレイヤーである、といった表現もできなくはない。


さて、ここで世界ランキング、あるいはオンライン、ソーシャルなランキングの話に戻るのだが、「自分と全国一位のプレイ」を直接対比してしまうと、上記のようなコメントが出るのもわからなくはない。だがここに世界ランキング、あるいはローカルな関係におけるランキングがあると、また違った動きを見せるだろう。週に一回知人と何かゲームをやるとして、そのゲームの「全国一位が活用するテクニック」を解説した動画があれば、そこからいくらかでも何かを吸収しようとするだろう。そういったものが、昨今のゲームにおけるランキング、オンライン、ソーシャルといった要素が生きてくる場面であろうと思う。


ただし、である。その動画がもし「システムの穴をついて本来のプレイとはまったく異なるプレイをする」といったものだったら、そうはならないだろう。まあこの「本来のプレイとは〜」という表現もかなり曖昧なもの*2なのだが、ここではそう表現する。例え話をするならば、マリオカートタイムアタックでショートカットや加速手段は「テクニック」として許容範囲だが、ライン上の壁に当たって周回を誤認識させるのは許容できない、といったような。


そして冒頭で槍玉にあがった「永パ」というのは「許容できない」に属するケースが多いのではないか、と自分は思う。もちろんやねうらおさんが解説するように永パにも種類があり様々なケースがあるのであるが、大体の場合それは「興を削ぐ」ということになるし、一般的なプレイからもかけ離れたものになる可能性が高い*3。そういった意味で、「永パ滅ぶべし」に正しさはあると思うのだ。

*1:そもそも「何が難しく何が簡単か」というのはある程度の知識や経験がないと把握できない、みたいな話もある

*2:格闘ゲームの裁定やレギュレーションなんかが参考になるだろう。そしてネトゲのやって良い悪い問題とかになるとまず泥沼になる。

*3:そもそも一般的なプレイヤーのモチベーションとなる"競争"という部分が破壊される