「あなたは書き手の善意を汲んでいない(のでろくでもない)」

 といったようなフレーズは中々面白いもんがあるな。読心術、というか(のでろくでもない)の理由付けとしてあまりにも万能すぎる。「努力しろ(結果は私が判断する)」にも匹敵するパワーがある。まあ先回りして「これは善意です。悪意ではありません。」というのを利用する人にとっては「こういうヤツがいるから食いっぱぐれねぇんだ…っ(AA略)」な感じではあるのだろうがなんともだな。

「頭が良い」というフレーズを用いるとめんどうくさいことになるのは

 そのフレーズの使用者がネガティブな意味で「頭が良い」を用いようとするバイアスが強い*1ケースがあることと、「頭が良い」をネガティブとした一方で、純粋な意味での「頭が良い」という概念が空白になってしまっているのがアレなのかなあ、と思った。読み手にとってはそこの概念が空白になってしまうし、時には書き手自身もそうなっちゃってたりする*2
 というかあれだな、良し悪しを転換させてやろうというのは物書く人の性ではあるけれどそこは慎重にやらないといかんよね、ということか。良いは良いで悪いは悪いって言えよ、というのはあるけど。日本語でおk。

*1:そのため若干歪な、妄想を含んだ文章になる

*2:色々と言い換え("本当に頭が良い"のは〜〜的言い回し)はされるものの、空白地帯にしっかり収まりきっていないとでもいうか

良し悪し

http://anond.hatelabo.jp/20070224120207
http://satoshi.blogs.com/life/2007/02/post_13.html


 anondの方は俺が大学にいて「出来なかったこと」に関する話なのでかなり頷きながら読めたのだが、どうもその後の展開が変なことに。こういうのこそ「それは邪推ですね」とだけいっときゃいいんじゃねぇの、とか思ったがどうなんだろうな*1
 俺の感覚からすると、頭の良し悪しとか甘えの有無とかはどうでもいいので「俺が*2出来るかどうか」だけが問題で、それが出来ないことだけが問題だと思ってたんだけど、やっぱ普通の「他の人間」が意識されるような環境だと頭の良し悪しとか甘え度合いとかそういうのを意識せざるを得なくなるのかしら、などと思った。俺の場合は基本的に人と断絶してたからなあ。特殊例すぎるか。

*1:どっちの文章も真っ当ではあるが、二つ目の文章が一つ目の文章に対して書かれたものだとするならそれは邪推しすぎだな、というのはわかる

*2:満足する、あるいは結果を残すことが