内向き外向き

内側と外側、というか自分と他人(周囲)との関係、といったような話を見聞きするし自分でも気にしていると思うのだが、外側に対する意識が強い人*1の一部は、もう少し意識を内側に向けてもいいのではないか、と思うようになってきた。


というのは、別に自己批判をせよとか精神分析をしろとか病院に行けとかそいうのではなく、かといってネットの力で仲間がー、というのでもなくて、完全に自分だけになった状態での「好きなもの」であるとか「望ましいもの」であるとか「欲するもの」であるとかをこねまわしてみるのもいいんではないかな、といったような。


ゲーム関連の文章を書いていたとある人が、大仰にではなく、欄外の短文だかで書いていた「ゲームはプレイヤーと一対一関係の時に最もゲームらしく振舞う」というフレーズを俺は未だに覚えていて、それをある意味で信仰している自分からすると、ゲームを語る際にその「ゲームらしさ」を見失ってはいけないし、見失わなければ大抵の事は平気になるのと同様に、自分の趣味嗜好であるとか願望とかをちゃんと把握してしまえば楽になる部分もあると思う。自分と、自分の持っているものだけで自足しろというのは限界があるけれども、どういうものがあれば満足して生きていけるのかを把握することはできる、というか。


ここらへんは「趣味嗜好を語ること」にも繋がっていくんだけどまとまらないのでここまで。

*1:めんどうなので大雑把に言うと、キーワードとしての非モテ非コミュに該当する、または言及している人

上の文章を書いたきっかけ

他にもあるんだけど言語化しやすいところにリンクしておく。
http://d.hatena.ne.jp/mizukik/20070417/1176799105
これは俺からすると、自分で自己愛を満たすしかない、というところに着地する。そしてそのために、例えばゲームであるとか、小説であるとか、絵であるとか、まあ作品やそれ以外の色々な何か、(ネガティブではなく)非人間的なものを利用していくべきではないか、といったところ。
こういうのは自分の場合でしか語れないので自分の例で言うと、多分俺は他人に対して基本的に「筒井康隆永田泰大山際淳司を読んで好きになってほしい」と思っていて、俺が他人に対して何かをするというのはそれが基本であって全てそれの延長である、といったような感覚。そしてそれ以上のことというのはよっぽどでないと望まないし、例えそれが失敗したとしても自分は楽しいからオッケーである、といったような感じになってある程度安定したと思う。見る人によってはそれは身勝手なんだろうけれども、とにかく安定させるにはそれしかなかったので。
追記:適当に書きすぎたので普通に読むととんでもない文章になっていると思った。流石にここまで限定的なわけではない。原理的にというか思考の流れとしてこういうものがあることはあるんだが。あと特定作品や作家にこだわっているのは事実だが、「好きなもの」、「楽しいのでオッケー」の基礎になるもの、ひとというのはゆっくりとだが増やそうと思っているし、実際増えている。
まあ、どうしても「外側に出す時の作法」*1であるとか、「趣味嗜好以外の要因が含まれる場(職場とか)」という問題はあるのだけれども、自意識の点ではとりあえずこれでいいと思っている。

*1:この文章では「誰にもわかってもらえなくても自分自身で、俺言語で楽しめ」という趣旨なのでそこらへん全くフォローしていないので不親切だなあと書いていて思った。自分は他人にそれを伝えるのは余暇活動であり当たればラッキーでありそして日々磨いていくべき技術である、といったような意識を持っている。