生活圏

でどうこう、というのはたまに使っていたけれども、結局は「自分(と周りの環境)はこうだよ」というのを持ち寄ってサンプルにすればいいので、それをやらずに印象や感情だけでどうこうするとロクなことにならないよね、ということだったりする。
ただまあフレーズになってしまうと、「自分の周りではこうだ→それが正しい」とか、「あの人の周りではこうだ→だからこの話は間違っている」とか、ちょっとアクロバットすると「あの人はこう考えている→私と同じだ→だから多数派だ→だから正しい」みたいな用法もいくつか見たことがある。とまあそんな感じで悪用される*1感じなのでもうちょっと書き方考えないといかんかなーなどと思った。
価値や善悪の判断とかに結びつけずに書くのが一番いいんだけど、まあ(ネットに限らず)人間の話題というのは大抵「是か非か」という地点で盛り上がるので、結びつくのをゼロにするのは結構難しいんだけど。

*1:ここはまあ「自分の経験から価値判断」ではあるんだけど、自分で勝手に好き嫌いをわけるくらいのことはしといていいだろう、くらいの感覚。

「過去の自分」について

web色紙評論家の瀬戸風味です。嘘です。
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080814/1218739253
これを読んで
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20080804#p1を書いてたときにすっとばして書いてたことを書いてもらった感じがした。まあ、「許す」と決めたとしても、この前言及したnitinoさんの文章のような出来事は起きるということでそれだけでオールオッケーなわけではないんだろうけれども。
あと、自分の感覚では「許す」というよりかは「抱えて生きる」の方が近い。んー、これは深読みしすぎかもわからんけど、「許す」としてしまうと「なかったことにする」という選択肢も存在してしまって、それは自分にとってはちょっと嫌だ。
「攻撃してしまう」までは行かなくとも、「若いころは馬鹿だったなあ」「そんなことはどうでもいいから○○しようぜ」となってしまうと、なんか許してる感じはするんだけど、それはやっぱり「(過去を)下に見ている、見ようとしている」んではないか、とか。
なので、「抱えて生きる」になるわけなんだけど、うーん。それは「拘れ」とか「悶々としろ」では決してなくて、なんだろう。「真面目にやれ」が近いか?自分が過去そこにいたことを認め、そして今現在そこにはいないことを認め、そして過去の自分(のような人)に対しては真摯に向き合う。そういったスタンスが理想なんではないか。


参考:「伊集院光がゲーム対して持っている感覚」を引用したときがあったのでそれを
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20070902#p1