罵詈雑言に対するスタンス

はてなブックマークコメントで嫌な思いをしている人たちは、ネタとして「仲間内でお互いに罵詈雑言を浴びせるハートマン先任軍曹遊び」をしていないのだろうか - otsune風呂
以下は文中の「ブラックマジック」の参考。詳細はコメント欄。
ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム

はてなブックマークコメントに対する議論がどうも「どう悪ふざけを能動的にコントロールするか」という一点に集中しているように感じられる中で、「受動的にコントロールすべし」という具体的な提言。

悪ふざけは良くない、というのは正論なのだろうけれども、皮肉や悪ふざけを多分に含んだ小説やエッセイ(筒井康隆とか)を面白がって読んで育った自分としては、悪ふざけを否定する事は絶対に出来ない。悪ふざけという振る舞いには、真面目である事と同じだけの価値がある(真面目な事にも当然大きい価値がある)。

問題は、「悪ふざけ側」と「真面目側」が断絶しているか否か、ではないだろうか。ここでotsuneさんが言う「身内ならば怒っても良い」というのは、そこに断絶が無い状態からならば、「悪ふざけ」と「真面目」という両極の立ち位置からのスタートでも、お互いに調整して対話可能にできる、ということだと思う。逆に、身内でない状態で両極に立っていたならば、その断絶は埋めようが無い。その断絶を乗り越えようとするならば、相手に自分を身内だと思わせる、認めさせる事が必要になる。

気に喰わない悪ふざけ(これを日刊イトイ新聞では「ブラックマジック」と呼んでいる)に晒されたら、それを上回るウィットで返して場を支配するか、足をすくめずに無視をして落ち込まないのが良い。

悪ふざけ側なら真面目さを、真面目側なら悪ふざけを、相手と同等か上回る力量で「返す」ことで、初めて対話が可能になるということだろう。もちろん、それをやるにはかなりの技術と熱量が必要だろうが、それが出来ないときは無視すればいい。

断絶している相手へ、純粋に真面目な(あるいは悪ふざけの)批判をオープンにすることによって、同じ考えを持った人が集まってくるかもしれない。だが、その中に批判の相手は絶対にいない。そしてそれは相手も同じ事で、それがどちらかに傾く、というのはその場の数や勢いの勝負(宗教戦争とかパワーゲームとか言うんだろうか)にしかならないような気がしている。そしてその勝敗はその場限りにおいての決着でしかないようにも思う。

もちろん、悪ふざけ側には2chという巨大な存在があるわけで、はてな全体として真面目な方向へ進む事が悪い事とは思わない。ただ、最初に書いた通り、自分は悪ふざけを肯定する。その上で期待するとしたら、どちらの立場であっても、

「うわっ。そのリアクションは一本取られたよ」と讃えられるようなウィットで返すこと。

を目指す事にある、と今は考えている。そうすれば自然と、集団対個人、あるいは集団対集団ではなくて、個人対個人の関係に近づいていくようにも思う。


なんだか無駄に長くなってしまった…。
最初は「被害者が悪いのか」と取られかねない理屈を見事に納得させるすごい文章だ、という事を書くつもりだったんだけれど。