「下らない事は語ってはならない」

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何かについて考えよう、何かについて語ろうとするときに「考えるな、語るな、なぜならそれは下らないからだ」という物言いは(非モテ云々に限らず)必ず出てくるように思う。
野球のプレーについて語ろうとするときに「野球は下らない(だからやめろ)」と言われるのはあり得るし、そうするとプレーに関しては語れなくなってしまう。反論しようにも「野球について語る事は無駄/無駄ではない」という問題になってしまうのだから。
こういうメタな位置から「無駄だ」という行為に対しては、「無駄ではない」と反論した時点で負けてしまう(中身について語れなくなってしまう)。

この「下らない事は語ってはならない、考えてはならない」という理屈の「下らない」という部分に過剰反応すると、下らない派と下らなくない派のどっちの勢力が強いか、みたいな話になってしまう。こうなってしまってはそれこそ「下らない」争いになってしまうように思う。

もし反論、反応するのなら、「語ってはならない、考えてはならない」の方だろう。言論の自由、なんて大上段に振りかぶるとこれもまた話が変な方向に行くので微妙な気がするけれども、「無駄かもしれないけれど、それでも語って何かを生み出そうとしてみよう」だとか、「下らないって思われる事を考えて遊んでみよう」といった姿勢で、タイトルのような物言いは退けられるのではないかな、と考えた。


と、ここまでは「言われた側」の理屈。
たまにメタな位置から物を言ってしまう自分としては「言う側」についても少し書いておく。上の例のように、メタな位置からの物言いというのは、語ったり考えたりする当事者からしたら迷惑なもので、不毛な事のように感じるかもしれない。けれども、語ったり考えたりしている事に対して意見をしようとすると、どうしてもメタな位置に立つ必要が出てくる事もある。

そういったとき、「下らない」「無駄だ」、「だからやめろ」と切り捨てては何も生み出さない、という事は肝に銘じておかなければならないと感じる。例え、その対象が自分にとって下らなくて、無駄で、やめさせたいと思ったとしても、それを直でぶつけても共感は得られないだろう。

もし、そういったメタな位置からの意見を伝えようとするならば、語っている、考えている当事者の目的は何なのか、それは達成されているのか、がポイントになるように思う。語ることが目的を達成しないように見える場合は、「目的のためには違った語り方、考え方がいいんじゃないでしょうか」という提示の仕方ができる。そして、語ることで目的が達成されていて、それに対してポジティブに思えなかったならば、「そういった目的で語っているのは、傍から見ると良く思われないかもしれませんよ」といった形になるだろうか(この文章そのまんまだと慇懃無礼な感じがするが)。


自分は「語ること」「考えること」によって何かを生み出そう、という行為そのものは全面的に肯定したいし、それが潰される事は極力避けたい、と考えている。その上で、自分なりの主張をするにはどういった姿勢でいるべきなのか、という問題になってくるように思う。あんまり考えすぎると当事者として語れなくなってしまったりするので注意が必要だけれども、この問題は考え続けて行きたい問題だ、などと考えた。