続・空気を読む的なもの

糸井重里関連他 - 瀬戸風味@はてな
で↑という人とやり取りしていて色々と参考になったのだけれども、一つはっきりさせておきたい事があるので別にして書いておく。

↑さんが主張するところの「空気を読むべき」という事には何の異存もない。協調性がない(というのも微妙な表現で、自分としては「利益がない」とか「不快だ」とはっきり表現するべきだと思うのだが)人間というのは批判非難されて当然だし、そういう人間を擁護するつもりはさらさらない。

けれども、自分が引っかかっているのは、それを「空気嫁」の三文字で表現してしまう迂闊さ(とあえて言う)にある。


参考として
空気読めない - hope dies last
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20060219/0040320000
ここらへんを挙げておく。


これをもってして「空気とは信用できないものだ」と言うつもりはない。けれども、それは時と場合によって思考停止や不当な圧力になる可能性があることは否定できないと思っている。

↑さんのような人が「協調性がないのは良くない」「コミュニケーションするべき」と言うのはわかるし、正しいと思う。けれども、それを「空気嫁」という三文字にしてしまった時、↑さんが説明してくれた思考や論理(繰り返すがそれはとても正しいと思う)が置き去りにされるかもしれない、と自分は考えていて、恐れている。

協調性やコミュニケーションの大事さについて考え、実行しているであろう↑さんのような人が、何かの弾みで周囲と衝突したり、不当な圧力を受けたと感じ、それに抗おうとした時。その時、「空気嫁」という三文字が彼自身の手を離れて暴走し、彼自身へ襲い掛かってくる、そんなイメージがどうしても浮かんでくる。

「なんでもかんでもはっきり言えばいいってもんじゃないよ」という理屈もわかることはわかるのだが、自分が「空気嫁」という言葉の使われ方から感じる事というのは、このような事である。