「口だけ」と俺が消費するもの

友人と話したりちょっと前の音楽の話だったり発掘されてたワナビ問題だったり、あとはてながどうこうのメタブログ論だったりの文章を読んでいていつも思う事があるので書きとめておく。

どうやらそこでは(そういうことで発言している全員がということではない念のため)、何かを作る人とその作られたものを消費する際に、「高望みして」「何かを得ようとして」どうこうする行為がものすごーく醜悪なもので、そうでなく「高望みせず」「何も得ようとせず」消費するのがよろしいので素晴らしい、ということになっているようだ。

そして、どうもそれは実際のところ「思っている/思っていない」ではないようだ。何かを基準に線引きされて決定される類のものらしい。「お前は高望みしている(だから醜悪である)」「君は何も得ようとしていない(だから素晴らしい)」といった風に。


その基準として「口だけであるか/ないか」というのが有力候補であると思われる。もし仮に「言葉でないもの(つまり作品)」に向けて「言葉(つまり口)」で対抗しようとしているのなら、それは別々のものだからして、「後から別のもので対抗しようとしても無駄だよ」という意味の指摘だろう。それは正しいと思う。「とにかくやっちゃった奴が偉い」という主義は全力で肯定するし。その理屈で「言葉」を発する行為を「高望み」と呼ぶのならまあ間違っていないのではないだろうか。「得よう」というのはちょっとよくわからないが、作品や表現というのは多かれ少なかれ商業的見世物的であるだろうからそれも正しいのだろう。

では、「言葉でないもの」に対抗するつもりは全く無い状態で生み出された「言葉」、もしくは「言葉」に対しての「言葉」の扱いはどうなのだろうか。
「言葉でないもの(作品)」はそれはそれとして、


その作品や作者のためになるだろうという想いから出た「言葉」 
「作品を消費した事」をとにかく表現したいと思って滲み出る「言葉」 
「言葉」しか持たない人々と意見交換してみたいという動機で生まれる「言葉」 
そして、「言葉」と「言葉」という同じフィールドでのぶつかり合いの中での「言葉」 


それらに対して、「高望みで」「何かを得ようとして」「口だけ」であるという宣告はどういう意味合いを持っているのだろうか、と思ったりする。


自分は(言葉でない作品は存分に消費した上で)「言葉しか持たない者の言葉」はとても尊いと思うし、そういったものも「消費」していきたいとずっと思っているのだけれども、時としてそんな「消費対象」や「消費行為」が「高望みの何かを得ようとしてのもの」と呼ばれているのを見ると何か酷く悲しくなる。「言葉しか持たない者の言葉」ですらも「高望み」と呼ぶ彼らのストイックさには頭が下がるが、自分勝手なことを言えば「俺が消費するのを邪魔しないで欲しいなぁ」というのが本音である。