結局のところ

自分は「強烈な意志が感じられる何か」を見たり聞いたり読んだりすることが好きで好きでどうしようもないのだと思った。


だからその意志の優劣や正誤について語ろうとしたり、そこまでいかなくとも見聞読んだことによって得た何かを自分から外側へアウトプットしようとすると何か違和感を覚えるのだろうと思う(内省や分析や反芻はそれとは別にしてちゃんとやるんだけれども)。


その理屈で考えると、過去の自分がアグレッシブに何かを発信しようとしていたのは(当然承認欲求とかはあっただろうけれども)、「自分が見て楽しいものを自分で作ってしまえ」という動機があったのかもしれない。そう思ってしまうとファミ通のやりこみあたりに一生懸命だったのはその理屈通りだった気がしてくる。


そういった動機付けがネットによってなくなってしまったのか、単純に自分の環境年齢の変化による影響なのかはいまいちよくわからない。ただ一つ確実なのは、ネットによって田舎暮らしの俺でも極上の「消費するもの」を手に入れることができたし、今後も期待できるという事だ。ひょっとすると、「足りないので生み出す」モードから「足りている状態を維持し拡大させる」モードへと気付かないうちに切り替わっていたのかもしれない。


ハガキにシャーペンで何かを書いていた時代から、webの片隅でブログを書くようになって以来感じている違和感の正体はそこにある。のかもしれない。