友人宅でベランダでタバコを吸いながら考えたこと
昔のオタクなり萌え的なものというのは「あってはならん」ものだった*1ので、ありのままを「実況」することはできなかった。そこで彼らは「解説」する方向に進んでいった。作品も、世界も、己自身も「解説」していれば合法的に語ることが出来た。理性があることをアピールしないと犯罪者扱いされるからだ。
時は経ち、「解説」するには言葉が不足するようになってきた。ひたすらネガティブだったレッテルも効果が薄れてくる。そんな中でどうしても「解説」仕切れない感情として「萌え」という言い方は生まれてきたのではないか。ひどく理性的な彼らの内側から滲み出る言葉。「解説」を超えるものとしての「萌え」。
さらに時が経ち、解説という理性は薄れ、ネガティブだったレッテルはいつのまにか消えていた。場合によってはポジティブなものにさえなった*2。「解説」は"メタ""自分語り""ワナビ"とかなんとかとしてよくわかんないところに置いていかれ、本能の「実況」であるところの「萌え〜」が支配的になっていった。
理性的でいながら、土壇場で語る言葉を失ってしまう解説者。
語る言葉を捨て、本能のまま絶叫する実況。
解説者が涙を流しながら呟く言葉が、実況の叫びにかき消されないように願おう*3。
と考えたが俺はこういった流れの本流に関われていないので1から10まで妄想だな、とオチをつけた。