無礼を承知で

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060816#p1
にインスパイアされて改編を行なってみた。
注意書き、自分の立場としては

  • 以下の引用内文章は改編であり、事実とは異なった部分が多々あります。
  • fujiponさんを貶すつもりは全くありません。気を悪くされたならごめんなさい。
  • 自分が以前から気にしている文章表現が多用されていたので、これによって自分の思考を見直すのが目的であり動機です。具体的には「見下し」「小馬鹿」「自分の言葉」になります。
  • 改編としての精度、完成度は低いと思います。ただ、改編として破綻している部分からこそ何かが学べると思いました。
  • 元記事での「加藤議員の発言に見られる、自分基準を政治家という言葉に置き換えることの胡散臭さ」は全く同意します。ただ、胡散臭さは「置き換えの有無」ではなく「置き換えが妥当か」で判別するべきだと考えます。
  • 私は元記事中の「小泉-加藤」という対比について意見を所持していません。
  • 改編ネタとはいえ、改編した部分については「自分の意見」でもあるので、その部分についての指摘や反論は真摯に受け止めるつもりです。

id:fujiponアレルギー
はじめにはっきりさせておきますが、俺はfujiponさんが発言することそのものに問題があるとは思いませんし、fujiponさんの発言に対して匿名の書き込みや書き捨てのコメントで封じ込めようとするような行為には、強い憤りを感じています。

http://mohican.g.hatena/

↑の文章を俺は頷きながら読ませていただきました。


ところで、今日のブログでのfujiponさんの発言に対して、なぜか僕はいちいちカチンカチンときていたのです。自分でも、「なんで僕はこんなにfujiponさんの文にひっかかっているのだろう?」と悩みつつ。

それで、小一時間たってようやくわかったんですが、fujiponさんというのは、加藤議員を批判するときに、いちいち「見下して〜」「小馬鹿にして〜」というような「推意による結論」を発動していますよね。あれがどうも俺にはダメみたいなのです。

「僕は、加藤さんのあの表情と言葉に、なんだかいろんなものを小馬鹿にしているような空気を感じます。「見下している」とでも言うべきでしょうか。」

これって、いろいろと深読みしがちな人に違和感を覚える俺にとっては、とても不思議なんですよ。

「とても不愉快なんですよ。」

だけだったら、そうでもないと思うのだけれども。

俺は、fujiponさんの言葉に、なんだかいろんなものを無視しているような空気を感じます。「自分の感受性は真っ当」とでも言うべきでしょうか。

「(そこらへんの感受性の無い人間たちは、うわっつらの表現に左右される単純な連中だから、加藤議員の発言に影響されるのもしょうがないけど、私のような、真っ当な感受性を持った)僕は、加藤さんのあの表情と言葉に、なんだかいろんなものを小馬鹿にしているような空気を感じます。「見下している」とでも言うべきでしょうか。」

ってfujiponさんは内心思っているのではないか、という気がしてならないのです。

発言内容そのものは、「嫌・反小泉政治家チック」ではありますが、まあ、ひとつの考え方ですし、一概に全否定できるようなものでもないでしょう。「不愉快に思われるような表現はしない方がいいんじゃない?」と言われれば、それもそうかな、とも思いますしね。

でも、fujiponさんは、こういうことを言うときに、いちいち「見下している」って前置きする人なんですよね。

「そう感じた人間」は「真っ当な人間」なのだ、という「自信満々」みたいなのが透けてみえるような感じで、すごく嫌なんですよそれが。

 しかも、fujiponさんは、毎回毎回、なんとかのひとつ覚えみたいに「見下し」「小馬鹿」って言っているんだもの。好きなんだねえ、自信満々なんだねえ、「見下された」「小馬鹿にされた」と感じられる自分が、と。

それに比べると、モヒカン族の「モヒカン族宣言」という宣言内容というのは、ものすごく「差異を認める人視点」なんですよね。

「余計な深読みはしません。」というのは、一種の「ネットオタク」みたいなものなのかもしれませんが、すごく共感できるんですよ俺にとっては。モヒカン族のなかに「自信満々な人」が全然無いとは思わないけれど、少なくともモヒカン族は、その「決め付け」みたいなのをうまく消すことに成功しているのではないでしょうか。だからこそ、モヒカン族はカリスマなのだし、「怖い」のだけれども(ハンドアックスが)。

 俺は、自分の感受性に対して、「○○とは、こう感じるものだ」という決めつけを自分から周囲にひけらかす人への嫌悪感があって、「○○と言う人は、人を見下して小馬鹿にしている」なんていうのを読むと、「じゃあ、そう感じる人がいた時点でその発言は価値がなくなるのかよ」とか、ついつい挙げ足を取ってしまいたくなるのです。人は自分の「感受性」から逃げることはできないけれども、誰かに対して何かを伝えるときには、その「感受性」というのは諸刃の剣だということは、認識しておくべきなのではないでしょうか。言っている本人にとっては、自分の言葉を強めているつもりなのかもしれないけれど、周りからみたら、「もうちょっと自分の感受性を疑ってみれば?」というようなことは、けっして少なくないはずです。「じゃあ、そう感じなかった自分は、何か間違った存在なのか?」とか、周囲から反発を招いたりしているようなことも、けっこうあるのかもしれない。

 もちろん、自分自身に対してとか、自分の感受性に対する「自信」を持っている人っていうのは少なくないと思いますし、それを持つことそのものは大事なことだと思うのですよ。しかしながら、それをむやみやたらにひけらかして、その「自分基準」で他者を責める人というのは、なんだかとても感じ悪いんですよね。「自分の言葉」って言っているけど、本当は、それは「自分の言葉で」じゃなくて、「私が納得できる言葉で」なんだろ、としか思えない。

こういうすり替えをやる人は、すごく器が小さく見えます。そんな前置きに頼らずに、差異を認める考え、差異を認める言葉で勝負してみればいいのに。