しない信仰

http://d.hatena.ne.jp/nitino/comment?date=20061020#c

# 通りすがり 『「しない」教は現代の穢れの文化ではないかと思いました。宗教的な態度であり、そこには個人を超えた規範があるような気がします。』 (2006/10/23 14:05)

というのがあって「これは"〜〜教"とか安易に使っちゃった弊害だなあ」と思ったのでいくつか思ったことを書いておく。俺は専門家ではないので、「○○の文化」系統の厳密な定義や違いはわからないけど、まあ一般的な俺の持っているイメージに基づいて、ということで。

字面からするとこの連想もわからんでもないんだけれども、「穢れ」というのは俺のイメージだと「忌み嫌う」感覚なので、この話になぞらえて言うと「顔をしかめて無視する」あるいは「何かの行為によって自分から追い払う」といった行動になると思った。そう考えるとこの話題に関して「穢れの文化」といってしまうのはちょっとずれるんではないかな。というか、確固とした「個人を超えた規範」というのが成立しているなら(明文化されていなくても)、それはことさら口に出して主張、共有しようとする必要はないわけで、俺が9月に書いた「『しない』という部分で人と繋がりたがる」ことだとか、元の文の彼の行動なんかは、「しないほうがすばらしい」というのが、"黙っていても成立する「個人を超えた規範」である"…と確証を持てない(あるいは薄々そう呼ぶに相応しくないと感づいている)がゆえの行動なのでは。

あとはなんだろうな、元の文になぞらえて言うと、彼が本当に(オタ趣味とかそこらへんを)「穢れ」「個人を超えた規範」だと思っているのなら(かつ彼女を大切に思うなら)、彼は文中の彼女に対して「それは良くないのでやめるべきだ」と強く訴えるべきだし、結果はどうあれそうしないといけない、というのが「個人を超えた規範」という概念だと思う。

まあなんというか、文中の彼はその点で「ヌルい」というか*1。そういったヌルさは時に便利だけど時に不便(というか不幸を生む)だよね、という話だと思った。まあ「ヌルくない」ことによって不幸を生んだりすることも時にはあるんだろうけれども、俺の価値観からすると「ヌルくない」ところで発生する不幸は不幸として納得できるところがある、と思う。割り切れる、受け止められる、というか。

*1:なので文化、宗教に基づいた行動とするにはちょっと無理があるように思う。まあ「〜〜教」という表現にはヌルく浸透した常識といったニュアンスもあればガチの宗教という意味も含まれるので俺の例えはあんまりよろしくない。そこらへんに関しては以前書いたように反応重視で新書のタイトルをパクってみたという話。