愛憎半ば

「読んでいて、何らかの感情を起こさせてくれる書き手」というのはいるもので、それは「好みの文章」と言ってしまうと少しざっくばらんに過ぎる。
そういう文章(書き手)というのは、読み手にとって気にしている事柄が共通していたり、視点の置き方が似通っていたり、境遇や嗜好が似ているからこそ気になるわけで、そういった共通点を前提にした上で、特定のある事柄に対しての意見、感じ方が合っていればプラス方向に、ずれていればマイナス方向に激しく針が振れるということだろう。愛憎半ばするというか。
なので、ぱっと見「こいつはこれこれを好むようだ」「こいつはこれこれを嫌うようだ」といった部分があったとしても、その裏にはそれとは逆の感情があって然るべき、と思っておいた方が良い。のだろうか。ツンデレもいいけど逆もあるよね的な。


もう少し話を広げると、「何かしらの感情」を抱いたとして、それを外部*1に吐き出し、レスポンスをもらうことによって「解決した」と思ってしまうのは対症療法もいいところで全く解決になっていないといえるだろう。そういった「己が抱いた感情」というのは基本的に自分自身で引き受けて解決するべきで、百歩譲ってもそれは「感情を抱かせた書き手」との一対一関係において解決されるべきだろう*2。まあ「解決する」ことがいつでもベターな選択肢とは限らないんだけれども。

追記:もうちょっとだけ広げると、己→一対一関係→「誰か」と3つに分けてしまうのもダメで、「一対一関係」と「誰か」の間に「身の回り、生活圏」(あるいは厳密な意味での「現実」「社会」と言ってもいい)というカテゴリが入るはずなんだけどそれがあんまり意識されないよねwebでは、といった感じのことをたまに思う。

*1:それこそはてブとか匿名掲示板とかにいる「誰か」

*2:これひょっとすると順序逆かもしれないが俺は自分自身で解決しがちなのでこうした