文学フリマに行ってきました。
放送部(g.broadcasting)のメンバーとUstやったりインターネッターの方となんだかんだ話したりしました。あとid:extrameganeさんのタモリ本に書けていればよかったなあ、と後悔したり*1、id:republic1963さんのクリルタイはいつの間にか非モテだけではなくなってきているなあとか思ったり、迎撃してくれるはずの人を待ち構えたりしました。
まだ覚えていることから覚えておきたい発言を独自解釈してメモっておくと
- 創作のゴールが商業というのはどうよとかなんとか
- ゲームにしても考え方にしても「生活」準拠な部分はすげーでかい。
- 「個人史」を書くのは個人的な行為として大いにアリ。
- 「個人史」というのはつまり「体験」である
- 個人史はそれだけで感動的で面白いものなので、「物語」や「歴史」としてしまうとどうも微妙
- まあどんな味付けにしようがどんなつもりでやろうが、「そうだよね」と思う人が多ければそれは強度を増してゆく*2
- 「好き嫌い」ということは、まあ、ある。
- それを言語化、やりこんでいくことは、個人的な行為として、よいこと。
- ただしそれが「批評」「歴史」というところへは繋がっていかない(いくべきでない)
- それを言語化、やりこんでいくことは、個人的な行為として、よいこと。
- 「体験」をいうのは文章化されにくい。
- 基本的にする必要がないから。
- 「体験」を上手に文章化すると、とてもいいものになる(可能性がある)
- それをやる仕事が「ルポライター」なんではなかろうか
- 分野によっていたりいなかったりする
- それをやる仕事が「ルポライター」なんではなかろうか
- 非モテってどうよ
- 自分は「ダメだったときの自分」という問題として捉えている(過去形になっているのは否定しない)
- 話し方としてまず「あなたにとっての非モテ(と呼んでいる問題)はどんなものですか?」というのがある
- ある特定の何かへのカウンターというのは、可能だしやっていくべきもんであるけれども、それは「書くこと」としてカウンターしていかないといけないような気がしている。
- 「年下による創作物」の受容の仕方、とか。同族嫌悪とか?
- ゲームは遊び方でなんとでもなる。蓄積型、クリックゲー、アクション、シューティング、といったカテゴリーは二次的な過ぎない?