漠然としているが具体的な劣等感(拡大版)

以下の文章はhttp://d.hatena.ne.jp/number29/20080701#p2を読んだ感想であるhttp://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20080812#p1を元にしてid:republic1963さんの同人誌『奇刊クリルタイ3.0』に提供したものです*1
機会と場所を提供してくれたrepublic1963さんとヒントをもらったnumber29さん、ありがとうございました。内容に関しては、かなりネガティブでなんの足しにもならないような文章ですが、文章を書き始めて以来心のどこかで「書かなければいけない」と思っていたことがようやく書けた、と思っています。まあ環境があれなんで100%携帯でやったため詰めが甘かったりするところもあるんですが、とにかく書けてよかったなあ、というのが正直な感想です。
なお、『奇刊クリルタイ3.0』は通販その他で入手できるかと思われるので、欲しい方はrepublicさんのところでの告知を待ってみるといいと思います。
あ、あとなんか編集してたらトラックバックが無駄に飛んだ気がするので邪魔だったら消してください。

漠然としているが具体的な劣等感

何か矛盾しているような表現だけれども、自分が、そしてネットを通じて知っている「不安な人々」が、生きていく中でずっと感じ続けている「不安」というのは、この「漠然としているが具体的な劣等感」なのではないか、と感じている。
「漠然としている」というのは、直接に、面と向かって罵倒されたりはしないということ。「具体的に」というのは、漠然としているにも関わらず"そういうことになっている"と強く感じられる、感じざるをえないということ。
身近な例ならば、デブ、ブサイク、非モテ、引きこもり、無職、童貞etc…は「ダメである」、と。それらは直接言われはしなくとも、様々な要因から「そういうこと」になっていると感覚され、劣等感となって当事者にのしかかる。
「不安な人々」の苦しみは、それらの価値観に振り回される、振り回されざるをえないことにあるのではないだろうか。

これがもし、直接的な罵倒や嫌がらせだったなら、いじめ、ハラスメント、DVといった問題に該当するだろう。それは問題としてはとても深刻なのだけれども、問題化されているが故に、何らかの対策、援助、対処方法がある程度存在する。もちろん個人的にはそういった人には一刻も早く公的な施設や対処方法によって救われてほしいと思っている。
一方で、そこまで問題化していない「不安な人々」には(時として上に挙げた「深刻な例」にすら)、自己責任で自己啓発、自己変革を促すだけの「アドバイス」、あるいは「勇気」や「努力」が足りない、といったマジックワードによるダメ出しくらいしか与えられない。
これらのアドバイスには、当事者それぞれが持っている「環境」、当事者が抱える「コスト」と「リスク」、そして結果に対するある程度の責任、といった要素への配慮が抜け落ちていることが多い。中にはアドバイスの体裁をとりながらも罵倒のニュアンスを含むことさえある。
それらのアドバイスは「考え方を変えろ」というニュアンスを含むことが多いが、そもそもこういった類の「劣等感」というのは、何年もかけて、周囲からの扱いやメディアから流れてくる「価値観」によって出来上がってしまったわけで、唐突に考え方を変えようとしたり、無視しようとしたりしても、圧倒的な「そういうことになっている」感覚に押し潰されるのがオチだろう。
その劣等感が生まれる場所が学校、職場、家族といった流動性の少ない、生きていく上で回避不可能な、現実の場所においてなら、なおさらだ。さらにそれら「流動性の少ない環境」というのは、得てして脱出に多大なコストとリスクがある。*2
それら「環境」や「コスト」「リスク」にまで踏み込んで、しかもある程度の責任や継続性を持ってアドバイスできる人というのは、ごくわずかだろう。にも関わらず、世の中に「アドバイス」は溢れている。
どんな無頓着なアドバイスでも効果がある人はいるし、無頓着な人の多くは「思ったことを言っているだけ」なのだろうけれども、その状況は「不安な人々」にとって相当厳しいものであると感じる。

ネットは「環境」を無視して繋がれるメディアだ。
ネットから情報を得て、コミュニケーションを図るということは、上に挙げたような「劣等感を刺激する価値観」や「環境やコストを無視した無責任なアドバイス」に曝される機会を増やすことになる。同時に、変化させるのが困難な過酷な環境から抜け出すための蜘蛛の糸でもある。
自分の経験から言うと、「蜘蛛の糸」としてのネットの可能性を支持したいところだけれども、リアル(生きていく場所)における多数派(リア充!)に属せない人間は、どんなに自分寄りの価値観をネットで集めても「リアル」で否定され続け、自分に不利な価値観を「知ってしまう」ことだけが積み重なり、内面化していく可能性もある。
そしてさらに問題なのが、ネット上に居場所を見つけられたからといって、「リアル(生きていく場所)」の多数派に属しない限り、日常生活における不安や消耗は変わらず存在し続けるということだ。
「不安な人々」がネットという蜘蛛の糸によって獲得できるのは、「本当のこと」でも「新しいリアル」でも「理想の彼女」でもなく、「リアル(戦場)」を生き抜くための「安全地帯」なのだろう。

リアル(生きていく場所)が気に入らないからといって、そこから逃げることにはコストとリスクがあり、現実的には不可能だ。「いやだ」と叫んでも (発狂は防げるだろうが)目の前の、現実的な脅威は去らない。「努力」や「勇気」に頼ろうとしても、それを生み出す源はどこにもないし、余剰な体力は残っていない。
できるならば「別の場所への転戦」を、あるいは「消耗しない、回復できる場所」の確保を、
それが叶わなくとも「生き延びる」ための知識と装備を、「甘えている」「高望みの」「努力と勇気が足りない」らしい私達「不安な人々」は、手に入れなければならないのだろう。自分たちで。

*1:印刷で消し忘れがあったりしたので多少手を加えました

*2:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b9%a5%af%a1%bc%a5%eb%a5%ab%a1%bc%a5%b9%a5%c8