何をもってして歴史とか教養と呼ぶのか問題

laiso - 断片部
を読んでいて何か思うところあったので自問自答する。
確かにはてブテキストサイト関連に[歴史][資料]とかタグ付けしていた。恐らく「教養」の要素も入っている。でも俺の[歴史][資料]の守備範囲は異常に広くて、今さっきタグ付けしたのはこともあろうにテクノ名盤メモ: 啓蒙かまとと新聞だ。81年生まれにとってどこが歴史で資料なのだか自分でも良くわからない。

思うに、自分には「歴史」でないものが多すぎる少なすぎるのではないか。住んでいる所が自転車で30分以上移動してやっと「街」と呼べるものに着くくらいの田舎で、しかもそこは90年代で既にシャッター街の様相を呈していた、みたいな。そんなわけで、地元産でない情報はテレビラジオ雑誌とあとゲーム関係くらいしかなかった。幸い本屋はやたらとあったが、品揃えは今考えるとコンビニ程度だったような。そうなると、80-90年代の都市圏文化などというものは当然未知であり過去であり、それは歴史として捉えてしまっていると思う。

それから、本を読み始めたのが星新一だとか筒井康隆だとか村上春樹だとかなのが影響しているような気がする。そこで出てくる「農協」だとか「高度経済成長」だとか「全共闘」だとかは、まさに「歴史」そのものであった(そうか?)。

で、テキストサイトの話に戻してみると、数年前までWebの文章読むのは2chくらいしかなかったので、かなり「過去」という意識が強い。単純に新参者だからか。そういえば教科書教科書は聞いたことあるけど読んでいない。でも「教養」みたいな意識はちょっとある。入り口が転叫院さんの文章だったからだろうか。(ちなみにその遅い出会いから程なくして彼が目に見えるところで再び活動し始めてかなり不思議な気持ちになった。あれはなんなんだろう。)

閑話休題、自分の場合、そこに教養を見てしまうというよりは「他との区別がつかない」というだけのような気がする。小説が教養というならテキストサイトも教養だし、音楽が娯楽というならテキストサイトも娯楽だ。どっちも俺が面白がって消費するものだという点で一緒なので、なら聞こえのいい歴史だとか教養だとか文化だとかいう言葉でくくってしまえ、的な。

ここまで書いて何か出てきた。参加可能かどうかという視点が抜けている。三国志が好きでも参加できないからそれを歴史と呼ぶのではないか。いやでも参加しまくっていた家庭用ゲームでもファミコン初期とかは歴史であり教養のような。むむむ。「俺がその文化の中心になれる可能性」? いやそれを言ったら世の中の物事全部に当てはまってしまう(可能性が無い方に)。ってそれは情報が全て記録として見えるWeb脳なのだろうか。

やっぱ田舎に生まれた事と00年-03年の引きこもってた空白期間がでかいと思った。結論は無い。そして冒頭のリンクの表記がおかしい。