"自分の言葉"

http://nnc.cocolog-wbs.com/blog/2006/08/post_8299.html
というのを読んで。どうやらコピペやパクリ系の問題らしいし具体的によくわからんので、この記事内容がどうこうというのではないのだけれども、こういった場合に振りかざされる「自分の言葉」という表現がどうも引っかかる。記事中のコメント欄のノリで言うならば、俺としては("自分の言葉"という表現単体の話として)あまり説得力を感じない。


「学ぶ」というのが「まねる」から派生した言葉というのは割と有名な話だと思うのだが、この理屈から言えば「自分の言葉」が「他人の言葉」に勝るなら、「学ぶ」=「まねる」ことで得たものは全て「自分の言葉」よりも劣ったもの、という理屈になる。それでいて「自分の言葉」というのはかなり曖昧な表現なわけで、乱暴に言い換えると「あなたの言っているのは他人の言葉(なのでろくでもない)、それよりもっと素晴らしいものがどこかにある。ただし場所は知らん。」というような、無根拠に対象をろくでもない宣言できる便利な表現にもなり得る。というかこういう使い方をする人をweb上で何度か見たことがある。ここらへんから俺としては、安易に「自分の言葉」を振りかざす表現はあまり信用しないことにしている。
まあ、ろくでもない宣言をしたくなる対象はどうしても発生するんだけれども、その場合でも「自分の言葉/他人の言葉」以外の表現は可能なはずだし、そうした方がより正確にろくでもない宣言できていいのでは、とか思う。


もう少し妄想全開で書くと、「自分の言葉」によってぶった切られる対象は「知っていること」そのものなケースがある。知っている/知っていない、という関係をぶっ壊したい場合に使用される便利兵器といった印象。俺としては、知っている/知っていないなんてデフォルトだからわざわざ壊すこともないのでは、といった感じがする。俺は20数年間いろんなことを知ったし、同時に知らないままで生きてきている、という感覚がある。ガキのころに知ったこともあれば数時間前に知ったこともある。そこに大して差はないし、同時に"知らないこと"もまた差は無い、と考える。何かを初めて知った瞬間にそれは"知っている"になるし、"知らないこと"は"知らないこと"なんだから永遠に知ることが出来ない。(ここは時間軸による優劣とかが絡んでくる気もするけど俺はあまり気にしない)


とまあ、そういった「知った知らない」が他人と食い違うのは当たり前のことなので、その関係(食い違い)をどうこうしようという気が起こらない。というかそれは瞬間ごとに変わるようなものなので多少いじったところで仕方がない、といったような。そういったぐにゃぐにゃしたモノに対して取れるスタンスと言ったら、「知った知らない」という意識を固定化せずに自由な状態になるべくしておく事か。あと知りたいことは単純に粛々と知ること。それから、俺はまだ若い(と思う)ので、「先に知った方が偉い」という主義は(自分が知っている側にいても知らない側にいても)あまり使いたくないなあ、というくらいだろうか。