オタクのなりそこない

と横に書いているんだけれども、2006-10-04 - 砂上のバラックこの中でかなり近い記述がされていて少し思うところあった。
俺の場合、根っこを言ってしまえば、それは過去、いわゆるブームになっている作品や現象にうまく乗れなかったことだったり、少ない友人の中でも微妙に趣味やスタイルが食い違ってしまった経験だったりする。それに加えてhttp://www.netshopboys.or.jp/tvgm/japanese/text/archives/022.htmlこんな感じの文章に感化されすぎて「感動や快感は突き詰めれば固有のもの」みたいな意識が過剰に出来上がってしまったんだろう。恐らく。(ゲームはゲームとプレイヤーの一対一関係のときに最もゲームらしく振舞う、だとか)
俺が歴史とか教養といった見方に変にこだわるのは、上のような意識を持ってしまった俺のような人間でも否応無く組み込んでしまうのが、「歴史」であり「教養」であるからなのだろう。なので、俺にとっての歴史、教養というのは単純に「古典」「古いもの」「価値あるもの」といった意味ではなくて、過去も今現在ももしかすると未来も一切合財含めた「未来に残るもの」といったくくりで捉えている。気がする。
そして、「未来に残るもの」というくくりで言うならば、そこで求められるのは時代や世代や知識の量や範囲や当事者性や価値の有無ではなくて、それこそ固有のダンスを踊る所にしかないのではないか、とか。


それでもやはり、「ダンスは続くよ」のような文章に描かれているような一瞬を俺は美しいと思うし、そしてそれを文章化していることに感動したりもするし、同時代性というか世代と言うか「いま」を共有しているという部分を大事なものだとも思うわけで、そこで求められるものは一体何なんだろうかなあ、と時折考えたりもする。当然答えは出ないんだけれども。とりあえず今のところは(年のせいか環境のせいか機会は減ったけれども)ダンスを続けることと、そしてでき得るならばそれを別な形でアウトプットすることなのだろうなあ、と思う。でき得る範囲で。