「けまらしい」について。書くこと、書かないこと。一般化と「私」の書かれ方。
基本的に、個人がある特定の手段でハッピーになるのなら(それが犯罪でない限りは)、それは良いことだと思っている。その上で。
↓の「飲みに行きませんか」と「剣と魔法」の2つは要するに「けまらしい」なので、以前書いた
http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20070925#p1
あたりに繋がってくる。
ちなみにここらへんでウケて記憶に残っているのが、「参加できないなあ」という呟きに対して「私はほとんど参加してません」と返されていた場面があって、その「ほとんど」に含まれている無邪気さというか残酷さが度し難すぎてひどく面白かった覚えがある。と、これは余談。
で、これはこれだけでは良いも悪いもない。ただ、ある手段においてハッピーになれる人となれない人がいる、というだけのことだし、個人が特定の手段においてハッピーになれるのならそれはそれで良いことだ。ハッピーになれない人は、まあ、しょうがない。
ただし、その際ハッピーになれる側が常日頃「不幸」「悩み」といったことについて語っている人の場合は若干違ってくる。そういった人は大抵、「アンハッピーな人」という大きいくくりで(恐らくその中に自分を入れて)何かしらを語っている。
そのような人の目の前に「それでは私はあなたのようにハッピーにはなれない」(ので、けまらしい)と言う人が現れた時、
- 大きいくくりで「アンハッピー」を語ってきた以上、その目の前の人に向き合うか*1
- 「私だってこんなにアンハッピーだ」「そんなに羨むほどハッピーじゃないよ」と返すか
- 「けまらしがっている」「水を差すな」「ネガティブコメントだ」「炎上させられた」と返すか
という選択肢があって、俺としては正直下2つはあり得ないんじゃないか、と感じている。もっというと、下2つの返答を選択してしまうということは、今まで語ってきたことは「私」でしかなかったものを「アンハッピーな人」という大きいくくりで偽りながら語っていたことになる。俺としてはそこに欺瞞や傲慢を感じるので、モニターの前で積極的に見下していきたい。
もう少し書く。
今まで書いてきたことは、ともすればidでいうとREVさん的というか、「飢えた子供が」とか「間接的殺人が」とか、さらに「それは"飢えた子供"論法だ!」「それは"間接的殺人"論法だ!」とかに回収されてしまいがちなんだけれども、俺が考えているのはそういう論理的、倫理的なことではなく*2、「大きく"救済"を語るわたし」「一般化されてみたアンハッピーなあなた」という1対1関係が現れた時にどう振舞うのか、振舞えるのか、ということであったりする。その時に"わたし"は手を差し伸べるのか、「そうですか」と呟くのか、「けまらしがっている」と言い放つのか、という。
別項にしようと思ったがこのままさらに追記してしまうと、大きく語られた「救済のため」あるいは「ハッピーになるため」の文章というのはいくつも書かれているし、よく読まれている(注目されている)と思う。けれどもそれは、俺から見ると「ハッピーな人にウケている」ように見える。idでいうとmizukikさんのよく言う「こんな私でも幸運なことにハッピーになれました…って言われてもなあ」といったような。それは既に通過した(あるいは可能性のある)人間からは「いいですね」と言ってもらえるけれども、そこまで到達していない、あるいは到達不可能(困難)な人には届かない、といったような。
それは書き方によっては「この壷を買って幸せになれました」と大差がないようにも思えるし、どんな文章にしろある程度の前提というものはある。bが1000に届きそうな
http://b.hatena.ne.jp/entry/6196858
この話題も、「子供が生める」「周囲に人がいる」という前提で書かれているし、その前提をクリアできない人間にとってはそれこそ「剣と魔法」の世界の話としてしか読めない、という事実は、事実としてある。