可能、不可能と日常、非日常について

↑3つくらいでここをおさえとかないといけないな、と感じたので追記する。
A-Eの図で説明できるのだがまだ書いていないのでここで。
世の中のものは大抵、可能/不可能では分かれていない。日常/非日常か、低コスト/高コストか、だ。で、非日常で高コストを支払うことによって得られる幸福もあるし、日常で低コストがゆえに得られる幸福もあるだろう。
そしてそれら「幸福」を(一般論として、大きく)語る時、「高コスト」な場合は何かしらの抵抗、ツッコミが入るものだろう。「パンがないならケーキを」がツッコミ的な慣用句になっているように。そしてそれに比べると、「日常/非日常」という分岐点は考慮されていないことが多いように思う。
自分は今回色々な人に会ったけれども、それは結局のところ「非日常」である、と言える。いや楽しかったけれども、それは非日常の楽しさであり、日常の楽しさはまた別の問題になる*1。そしてまた、ネットを通じてメール、チャットやSkype、あるいはブログのTBなどでコミュニケーションを図るのは、時に日常であるし、時に非日常である。Mixiで晩飯報告をするのは日常だし、出会いを求めるのは非日常と言っていいだろう。
これらのうちどれが良く、どれが悪いということは言えない。ただ、それでハッピーになれればよい、というだけのことだ。ただ、そこには「onoffの壁」「コストの壁」そして「日常/非日常の壁」といったものが存在し、俺としては、壁がなくなれ、とは言わないまでも、壁が前提になっているものよりも、壁を意識しなくとも済むようなものが素晴らしいものだ、という意識でいたい、という具合。

もう少しあるな。良い悪いはない、と書いたが、そこで重要になってくるのが「自分が一体何を望んでいるか、欲望しているか」というところになるので、そこで自分の欲望をやりこんで何を求めているかをしっかり把握した方がいいよね、という話に繋がる。血液型の話題や晩飯報告に馴染めなくても問題はないし、アカデミックな話題やメタな話題に馴染めなくても何の問題もない。

*1:ここは俺が幸福だ/不幸だということをいっているのではない、念のため