たまに俺がイメージしている「共有可能性」と呼んでいるものに対する乱暴なまとめ(あるいは一側面)

注意:「情報」というフレーズには、「独特の文章のリズム」「語句のチョイス」「造語センス」なども含めて、「俺に何らかの影響*1を与える」ものとして「情報」と呼んでいます。

「俺の情報は俺が処理する」ということを突き詰めると、「(俺の中における情報としての)あいつの生殺与奪権は俺が握っている」と思うことが出来て精神衛生上とてもよい。
それを転じると、「俺が共有できる情報になり得る」という可能性や期待をもってコミュニケーションとすることができるし、「これは共有する価値も可能性すらもない」と切り捨てて見下すことも簡単になる。


俺言語における「共有可能性の高低」というのは、いわゆる「わかりやすさ*2」ではなくて、「それを共有できる可能性がどれだけ開かれているか、アクセスしやすいか」というところで判定されている。
mixiに入っていない人にはmixiの中の情報は読めないし、今20代の人には今現在の小学生の常識はわからない。他にも、いわゆる神秘体験は共有できないし、時間時代や場所距離で制限がかけられる情報は共有しにくい。
そのときに、何らかの学習をすればわかる、アカウントを取って日本語として読めばわかる、掲示板のログを一日中追っていればわかる、半年間何かを読み続けていればわかる、といったグラデーションがある、という。前にもそんなこと書いたな。
あ、それに時間と場所の概念が加わってくるのか。タイムマシンで過去に戻れば共有できたり、バンクーバーに住んでいればわかったりすることもある、という。


伊集院光が『「池田が」と言うと内輪ラジオにしか聞こえないが「ディレクターの」と前置きすれば共有可能性は上がる。』といったようなことを言っていた。
まあ、ネットで可視化される多くは神秘体験や前置きなしの「池田」ではあるわな。


万人が共有できる情報など存在しないが、精度を上げるのは少しの労力でも効果があるし、可能性のなさ、低さというものに対しては屈託や後ろめたさがある方が評価されるべきだとも思う(しないことの評価)。と、これは願望だな。

*1:例のようなものだと、俺は楽しくなる、面白くなる影響を受け

*2:「長い」「漢字が多い」「小難しい」とかそういうベクトルで判定されるわかりやすさ