twitter周辺のコピペの話

考えていたことを簡単にまとめる。

http://togetter.com/li/41362
発言そのままコピーでfavoriteやReTweetの数が云々、といったような話。
基本的な感想は
http://twitter.com/setofuumi/status/21470508748

コピペの話は楽屋裏から話が広がったからああなったし妥当だと思うんだけど、叩いた次の瞬間には出所不明のオモシロ画像に大ウケしてRTするんでしょ、というところがあって、それがだめってんじゃなくてしょうがねえじゃん、って所から話を始めないといけない気はするんだよなー

とりあえず他人のものを借りてそれを自分の評価だと錯覚してしまうのは残念な行為ですね、というのは前提として、ネタかマジか、コピペか否かで何か感想が変わる、というのははっきりいってあんまり楽しいことだと思えない。あと、リンク先の出来事としては「favoriteやReTweetの数」というのが妙なポイントになっていて、結構これが「(人物への)プラスの評価」として自明になってるな、というのを感じた。当然オリジナルで面白いものを生み出す人は評価されるべきで、それが他の人のコピーの方に流れてしまう、というのは良くないことだろう、けれども、「favoriteやれTweetの数」というのはそこまで「人物へのプラス評価」と密接には繋がっていないと思うし*1、自分としては密接にならない方が便利だと思っているし、読み手からは初見ではわからない、調べても確定させることは困難なことが多いはずの「書き手の意図」によって色々と左右されるのはめんどうだし現実的ではない、そして、その「意図」を巡ってあれやこれやが行われるのは単純に時間の無駄だなあ、と思う。

で、ちょっと話が飛ぶんだけど
http://twitter.com/setofuumi/status/21470750119

あと茶飲み話で「パクリ嫌な割には皆松岡修造大好きだよね」「いやあれは公だろう」というのがあったんだけど、「伝聞調いい話」とかもう「ネットウケテンプレート」みたいなものとして公になってるんじゃないのか、という意識がある。松岡修造とどれだけ違うのか、という。

というのも思って、まあ全員が全員松岡修造bothttp://twitter.com/matsuokabot)を面白がるわけではないけど、一定数「その形にあてはめればウケる」ということになってて、それはパクリとかとは別カテゴリになってるよね、ということを考えた。で、そういったテンプレートがネットには溢れているわけで、140字以内の伝聞調いい話であるとか、事象に対する一言コメントであるとか、気の利いた言い回しであるとか、人生に関する名言であるとか、そういったものを「パクったので悪い」と減点法で評価するのはかなり厳しいんじゃないだろうか、と思ったりした。ちょっとここらへんの詳細は後述する。

次にサザエさんbotが登場する。
http://togetter.com/li/46332
http://togetter.com/li/46818
http://togetter.com/li/47556
経緯はめんどうなので書かないが、俺の解釈だと、botとは名ばかりのなりきりである種のテンプレートに沿って発言をしていくアカウント、という認識だった。松岡修造botと同じ認識。当時のことを言うと、自分のTLでちらほら見かける時点で「(それほど時事ネタに寄っていないので)おそらくどこかにアーカイブがあるだろう」と思って読んでいた。結局どうだったかは省く。

そこらへんでこういう発現もしている
http://twitter.com/setofuumi/status/22326866077

何らかのキャラクターなりなんなりを間に挟まないと何かを言えない、聞けないというのはいったい何なのかなあ。何が多い。

これはなんというか、「キャラクターからフキダシを出して会話させるwebサイト」とか、「AA同士に会話をさせてなんらかの主張をするwebサイト」とかも含めて書いていた記憶があるが、それはともかく、そういうのが「読み手にウケる」というのがあるよなあ、というところの意識が大きかったと思う。よくわからん人物が一見よさげなことを言っていてもパクリかもしれないし文脈があるかもしれないし実はすごく外道な人間かもしれないし釣りかもしれないし…という懸念をうまくすくっているのがこういった形式なのかもしれないけれども、自分としては「文脈から切り取られた名言」みたいなものは功罪あるうちの罪の方が目立っている印象があっておそらくこういう発言になったと思われる。

で、ここらへんから一連の流れをどう思ったかというと、「パクリだから悪い」というよりは、「切り取られた名言的なものを有難がってしまう」方が深刻で懸念するべきなのではないか、という風に考えていた。実際サザエbotはたいそう褒められていたように見えたし、一部の軽率な人に限るとはいえ絶賛されていたように見えた。これというのは、これがパクリでなかったら素晴らしい、ということであって、俺としてはそれは「文脈から切り離されキャラクターというオブラートで脱臭した名言」を絶賛することであり、それはかなり危ういことだと思ったのであった。
もちろん、そういったpost群の中には心を打つものもあるだろう、けれども、それは自分の経験や自意識に裏付けされたものであって、本来自分によって語られる、意識されるものであったはずだし、「切り取られた名言」として他人に届くものではないはずだ。とはいえ、「自分の心を打つpostを書く傾向のある人」というのはもちろん存在する。ここの切り分けはちょっと自分でもわかってない。逃げを打つがもう眠いのでここまでにしておく。

*1:その人の価値観自意識によるけれども、運用としては色々なパターンがあるので