自意識

http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20061119/1163869342
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20061119/1163928779
ここらへんを読んでいて思い当たったのは、最近の自分語り*1におけるキーワードが「それは被害妄想ですよね」から「それは関係妄想ですよね」に微妙にシフトしつつあることだった。好転してんのかなぁこれ。
俺個人の境遇としては、そこらへんから一足飛びに恋愛に行かずに「人と繋がること」にいったりするんだけれども、まあどっちにしても「それは関係妄想ですよね」という意識は厄介であるなあ、と思った。極論してしまえば「人間関係は関係妄想の産物」と言えてしまうので厄介もクソもないのだが、それでも「でもそれは関係妄想ですよね」としつこく言ってくる人格が消えない場合がある(というか大抵消えない)ので、その目を誤魔化しつつ関係妄想にならないラインを見極めていくのが妥当な対処法であろう、と思うことにしている。
あとまあここらへんは手段、ツールの距離感の問題もだいぶ絡んでくるのだろう*2。オフラインで後を追い回したらめでたく(めでたくねぇよ)関係妄想ストーカーの出来上がりであるし、mixiのみの接点で晩御飯を報告しあう関係でも関係は関係だろう、というような。そこらへんで考えると現実的なコミュニケーションツールとしてのメールのやり取りというのはだいぶ重要になるのだろうな、とたまに思ったりするのでそこらへんで問題を抱えている人はメールを日常に組み込めばなんとかなるのかもしれない。俺はメール交換的なものに若干トラウマがあるのでだめなんだけど。

*1:定期的にそういう機会がある

*2:当然こうやってブログ書いてることもその範疇に含まれる

文章

http://q.hatena.ne.jp/1163208026
先週ばたばたしてるうちに終了してしまっていた。残念。
イデアというか原案段階で止まってしまっていた。

「中に人がいる」と、そのゲームを表現する時がある。

ゲームにおいて、主導権はプレイヤーが握るものだ。ボタンを押すか、レバーを倒すかしなければゲームは進まない。(アーケードゲームは例外になるが、これだってコインを入れなければゲームは始まらない。)
基本的に、ゲームはプレイヤーに支配される。
だがそれでも、ゲームが全てを支配する瞬間というものがある。
プレイヤーがゲームに支配されたと感じたとき、そのプレイヤーはそのゲームを「人」と認識する。

その瞬間は時に理不尽である。
その瞬間は時に不愉快である。
にもかかわらず、この表現にはそういった否定的な要素は含まれない。
それは感動であり、賞賛であり、祝福の表現だ。
それはgameに対してであり、作り手に対してであり、プレイヤー自身に対してでもある

その瞬間に「人」と呼ばれる存在は、過去の我々であり、未来の我々だからだ。
かつて支配されるだけだったものが、「彼」として同じ次元にいる、と感じられたこと。そんな現象への祝福の言葉が「中に人がいる」という表現なのだと思う。

相変わらずまとまった文書けねぇなぁ俺。

その○○は○○ではない

ネタにマジレス良くない
→お前の発言(ネタ)を、俺はネタと認めない。
の応用

お前の「努力」を、俺は「努力」と認めない
お前の「勇気」を、俺は「勇気」と認めない
お前の「配慮」を、俺は「配慮」と認めない
お前の「娯楽」を、俺は「娯楽」と認めない
お前の「感情」を、俺は「感情」と認めない
お前の「論理」を、俺は「論理」と認めない
お前の「倫理」を、俺は「倫理」と認めない
お前の「道徳」を、俺は「道徳」と認めない

割と素朴に使われているような気もする。認めないこと自体は真っ当なので、その結果まできっちり詰めて発言されていればあんまり気にならない。というか真っ当。逆に、認めない結果として出てくるのが(その人にとっては自明な)素晴らしきローカルルールであったり、どこかにあるわら人形だったりユートピアだったり陰謀論だったりサイレントマジョリティだったりするとびっくりするとかそういう話か。